「紀伊國名所図会」 江戸時代(文化8年)図 
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春日の森
 
 春日の森は、鎮守の森として多くの人々によって守られてきた森林です。
 この森にはホルトノキ、ツガ、シイ、クスノキなどの大きな木が生いしげり、昆虫は本州では春日の森だけに住んでいるネジロツブゾウムシという珍しい虫やカネコトタテグモなど貴重な生物が成育しています。
 この森は昔から木を切ることなく大切に守り続けられたので、貴重な生物、樹木などが残るとして、平成九年に海南市の指定文化財(天然記念物)に指定されています。 
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春日神社十番頭祭:海南中世史講座

応仁の乱と紀伊








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「毛利家文書」城頼連軍忠状












2016-02-20 16:27:23

地元豪族の末裔が交流  春日神社で大塔宮十番頭祭


海南市大野中の春日神社(三上秀信宮司)で8日、「大塔宮十番頭祭」が行われた。
 室町時代まで海南市西部と和歌山市南部の一部を統治していたという地元10家の豪族「大野(春日)十番頭」の末裔(まつえい)が一同に会し、交流。祭典では井口家の井口莞爾氏が斎主を務め、祝詞を奏上した。
 鎌倉幕府打倒の先駆的役割を果たした大塔宮護良親王(おおとうのみやもりながしんのう)が熊野へ行く途中に春日神社で滞在。「大野十番頭」が護衛の任に当たったとされている。
 海南中世史講座もあり、和歌山城郭調査研究会の白石博則代表が「紀伊国守護の城・大野城」について解説。一般参加者を含めて熱心に聞き入っていた。

わかやま新報 6/11掲載


▲境内で記念撮影


2014-06-11 12:57:22

護良親王と在地武士






2014-06-11 12:57:22

大野十番頭と大野荘中村の経済社会 その③


名取三十郎の真田流研究
右の箇所まで書いたのが平成二十五年五月八日の昼ごろでした。
折からフリーライターの松崎健司君が 東京から取材に来庵したので、昼食しながら応談した後、喫茶店『うらら』に行って、二人でコーヒーを飲みました。帰ろうとすると、カウンターの上に日刊紙 『わかやま新報』が開かれていて、一面見出しに、「”紀州忍者”の墓石発見」とあるので、松崎君が勘定をしている間に覗いてみたら、「紀州藩の軍学者名取 三十郎正澄の墓石発見・・・・」が見えました。名取は大野十番頭調べで眼にしたばかりの姓です。
庵に戻って『南紀徳川史』を捜すと、果たして「武術伝第一兵法」の部に「名取三十郎正澄」がありました。
「藩 士書上げ」によれば、名取三十郎正澄の祖父は、旧甲州先手者(武田家武士)の名取輿市之丞正俊で、徳川家康に仕えた後に浪人し、元和元(一六一五)年に信 州真田へ行って病死しました。三十郎の父彌次右衛門正豊は若年のみぎり砌、諏訪因幡守に仕えましたが、その後紀州家に仕えて正保四(一六四七)年に死去 し、以後子孫代々相続して八代目の八助善記が文政九(一八二六)年に、不埒のために改易仰せ付けられた、とあります。「元和御切米帳」に「名取彌次右衛門 正豊は二百五十石を給され、その死(一六四七)の後、跡目の同苗六之助へ二百石下さる」とあるのはこの名取家のことです。
ところが『南紀徳川史』は、「按ずるに・・・・・」として、おおよそ下記のように述べます。

「承応三(一六五四)年に新規召し出された名取三十郎正澄は、中小姓を仰せ付けられた後、御書院番御近習詰大御番に転役したが、勝手不如意にて願の上御扶持方下され、伊都郡大野村へ在宅、宝永五(一七〇八)年三月に病死、勤中の禄高相知らず」

つまり彌次右衛門正豊の跡目として二百石貰った名取六之助とは別に、弟の三十郎が彌次右衛門死去の七年後に新規お召し抱えになったのです。三十郎は幾つかの役職の後、勝手不如意のため、伊都郡官省部荘大野村で扶持を受けながらの在宅勤務を願い出ます。
勝 手不如意とは、大御番勤めでは勝手(自由)が利かないという意味で、扶持を頂きながらの在宅勤務を願い出て認められた三十郎は大野村で忍術研究に没頭し、 新規召出しから二十七年目の延宝九(一六八一)年の初秋に、三大忍術書の一つとされる『正忍記』(国立国会図書館蔵)を完成します。名取流軍学指南役の名 取家が保管していた『正忍記』を、寛保三(一七四三)年二月に三十郎の子の名取兵左衛門が渡辺六郎左衛門に授けたことが、「藩士書上げ書」にあります。
三 十郎が『正忍記』の執筆に長期間を要したのは、普く諸流を調査研究していたからと見えますが、それにしても長すぎます。おそらく大野村では別の調査、すな わち真田流薬学を研究していたのです。結論を言ってしまえば軍学=忍法=薬学で、さらに甲賀=真田=楠木と観たら極めて判り易いのです。

   真田忍者の里大野村
名 取三十郎が紀州藩に大野村での在宅勤務を願い出たのは、この地区に伝わる真田流(甲賀流)忍術を研究するためです。大野村は真田幸村が隠れ住んだ九度山に 近く、維新後にもここに甲賀忍者の拠点があったことは、甲賀流忍者の頭領の家に生まれた元衆院議長福永健司が日経新聞の『私の履歴書』に書いていました。 数十年も前ですが、はっきり覚えています。
和歌山県立伊都中学を出て旧制松江高校から東京帝国大学に学んだ福永健司は内務省に入り、埼玉県副知事 から政界に出て、衆院議長になりました。埼玉医大の前身は、丸木氏が経営する毛呂病院ですが、埼玉医大病院の開設に尽力したのが福永健司で、そのために自 民党政治家の指定病院の様相を呈していることを、藤井厳喜氏が『ケンブリッジ・フォアキャスト・レポート』で書いていたのは、竹下登氏が激痩せの姿を見せ た平成十四(一九九九)年のことです。
福永姓は、一説に徐福の子孫と言われていますが、徐福→甲賀忍者→真田流薬学→福永健司の流れは、慥に不自 然ではありません。真田の姓は海野幸隆が信濃国小県郡真田郷に入って真田氏を称したことから始まりますが、海野氏の出自の滋野氏の名が史上に現われるのは 延暦十七(七九八)年です。
これより前の天平勝宝元(七四九)年に滋野東人と称した楢原国造東人は、大和国葛上郡楢原郷を本拠とする豪族で、遡ると紀国造に辿り着きます。しかしこれは、海人族が騎馬民に対して常に出自を隠そうとした一例で、海野氏はその名の通り海人です。
海 野氏の起源は、筑前国糟屋郡志賀島に発祥した海人族の安曇(阿曇氏)で、海神ワタツミを祀る志賀海神社を氏神としています。騎馬民との抗争に敗れて信濃の 山岳地帯に逃れて安曇野を開いた安曇氏の一部が小県郡に移って滋野氏を称し、滋野氏から海野・望月・禰津の三氏が出ます。
ところが、滋野氏のこの家系伝承は、清和天皇第四皇子貞保親王から始まるところが、例の経基王と多田満仲が家系売買により清和源氏を創設した事を連想します。
因 みに『新選姓氏録』や『尊卑文脈』などは何通りもあって、ホンモノはただ一つ天皇の御手許にしかないと聞きます。これは、平安時代に藤原北家が諸氏の戸籍 捏造を摂関利権としたからで、貴族には本来「藤原」と「橘」しか存在しないのに、有力開発領主に皇胤の偽系図を与えて皇別とし、賜姓源氏と賜姓平氏を数多 く拵えたことから生じた現象ですが、この不正賜姓が日本史の根底にある以上、人文科学としての日本歴史はそもそも存在しえないと仄聞しております。
從っ て系図だけに基礎を置く歴史研究は、民俗学ならまだしも史学研究としてはしない方がマシです。正しくは系図よりも伝承に重きを置くべきで、さらにその種族 的活動の態様をつぶさに観察すれば、その氏姓の本性がじんわりと浮かび上がってきます。その観点からすれば、滋野三氏のうち海野・真田氏は明らかに海民系 で、しかも職能が薬学であることは、条虫を「サナダムシ」と呼ぶことでも明らかです。
因みに、大野村と大野荘を並べてみて気が付いたのですが、天 武天皇の湯沐邑の荘官だった湯沐令がおほの多品ほむじ治だったことです。「壬申の乱」で、部下の和邇氏を率いて大海人皇子を援け、大功を挙げた品治の姓の 「多」は「おおの」と読みますから、後年、その領地に「大野」の字を宛てたのではないか、ということです。多品治は、「壬申の乱」の功績で朝廷に登用さ れ、天武十二年に、判官・録史・工匠といった部下を引き連れて全国を巡り、諸国の境界を定めたとされます。
 つまり、この大野荘はもと多氏の領地であったために和邇氏と縁が深く、春日氏が来住することになったのではないかと思えます。とすると、伊都郡の大野村もあるいは、多氏の領地だったのかもしれません。

   寄生虫療法とノノウ
因みに、『今昔物語集巻二十八』第三十九話は「す寸ばく白信濃守に任じて解け失する語」と題し、寸白すなわちサナダムシ持ちの女性が生んだ子が成長し、信濃守に任じて赴任した時に、態度を怪しんだ信濃介(副知事)に胡桃酒を飲まされて、解けてしまった奇譚です。
私の幼少時は、人糞を肥料に使うところから回虫持ちが多く、小学校で「まく海人り草」と呼ぶ駆虫薬を定期的に飲まされました。海人草はその名のごとく海藻で、フジマツモ科マクリ属マクリという紅藻の煎じ汁でしたが、てきめんに効果がありました。
その後、農家も人糞肥料を使わなくなり寄生虫は周囲から消えましたが、「寄生者が終宿主を痛める行為は自らを危険に晒すから終宿主が死ぬような事態を起さない」との説が近年台頭し、外国では回虫に過剰栄養分を食わせるダイエット療法が実行されています。
真 田流の忍者薬学では、疫痢菌など腸内で繁殖した各種の有害菌を回虫に食わせる療法が古くから実行されており、回虫が増えすぎると人体に危険が生じるのでサ ナダムシに食わし、サナダムシが増えすぎると然るべく駆虫すると聞きます。胡桃を使うかどうかは聞いていませんが、回虫もサナダムシも、増え過ぎなければ 有益で、増えすぎた場合には駆虫するのが筋道なのです。
以上から、①回虫・条虫の薬能・薬理を真田流忍者薬学ではとっくに知っていた、②駆虫薬に海人草を用いる真田流薬学は海人系の薬学である、②条虫駆虫薬に胡桃を用いた信濃介はおそらく滋野・海野氏の海人系であったということが判ります。
甲 賀忍者と真田家とは深い関係にあります。甲賀五十三家の筆頭望月出雲守は、海野(真田)氏、禰津氏と並ぶ滋野三流です。苗字の由来は「望月の牧」で、奈良 時代から御牧の産駒を朝廷に送っていた滋野氏が、近江国の甲賀で産駒を飼養して休養や調教を行っていたところから甲賀との関係が生じましたが、平将門の乱 で武功があった滋野氏分流の望月三郎兼家が近江国甲賀郡の大領に任じたのが甲賀望月の祖とされます。
甲賀望月一族の望月千代女は、信濃望月氏の当 主望月盛時に嫁しましたが、川中島で戦死した夫の没後に武田信玄に仕え、甲斐・信濃の巫女を束ねる「甲斐信濃二国巫女頭領」に任じ、「くノ一」すなわち 「歩き巫女」を養成して諜報に当らせました。千代女は、信濃国小県郡禰津村(現長野県東御市禰津)の古御館に「甲斐信濃巫女道」の修練道場を開き、戦乱の 世で孤児や捨子となった少女達から美少女数百人を選び、呪術・祈祷・忍術・護身術の他、色香で男を惑わす情報収集法を仕込みました。ここで諸国往来の巫女 としての修行を積んだ歩き巫女達は「ノノウ」と呼ばれ、武田信玄のために諜報活動を行い、大きな成果を挙げました。ノノウの里となった禰津村には、今でも 巫女の家が並んだ「ノノウ小路」や墓が残るそうですが、私はまだ逝ったことはありません。
因みに、禰津村に集住した歩き巫女たちは、その後は外法 箱を首にかけ、死者に代わって縁者と話す「口寄せ」をしながら諸国をさすらったと謂われますが、思うにその姿は、ケシを用いて乗り移り(憑依)や魂鎮めを しながら回国したという丹波穴太村の上田吉松を初めとする大江山霊媒衆に余りにも似ています。

  新楠木流の極意は真田薬学
平 成二十五年五月十六日、たまたま和歌山市寺町の恵運寺に立ち寄ると、近来発見された名取三十郎の墓に、出来たばかりの金属板が掲げられ、徳川頼宜の命名で しんなんりゅう新楠流と呼ばれた、とありました。甲州起源なのに、武田流でも真田流でもなく、新楠流とはいささか不審です。
『萬川集海』及び『忍 秘伝』と並ぶ忍術三大伝書で英・独・仏ほか各国語に翻訳された『正忍記』の著者の名取三十郎の創めた軍学は、祖父輿市之丞正俊を流祖とする武田系の名取流 軍学ではなく、楠不伝から学んだ楠流を三十郎が発展させた新流派として、藩主頼宜は新楠流と命名したのです。
天正年間に熊野新宮城主堀内氏に仕え た楠正辰は、江戸に下ってなんりゅう楠流軍学を講じますが、その婿養子となった由比正雪が、橘正雪と名乗って寛永七(一六三〇)年に紀州に入り、藩主德川 頼宜と昵懇になります。正雪は紀州藩主との関係をかざして、江戸で楠流の兵学塾「張江堂」を開き、紀州藩士をはじめとして門弟三千人を集めますが、慶安四 (一六五一)年に幕府に対する謀反を起こして自刃します。
名取流軍学を家職とする名取家は、甲州先手組の名取輿市之丞正俊を流祖とし、輿市之丞正 俊(流祖)→彌次右衛門正豊→三十郎正澄(中興の初代)→兵左衛門邦教(同二代)→四郎三郎堯暢(同三代)→旧宇野辺又三郎正●(同四代)→兵左衛門正直 (同五代)→竹之助正邦(同六代)→亀楠正務(同七代)と続きましたが、中興第二代及び三代を除いて、楠木正成以前からの楠木氏の通字たる「正」を用いて います。四代目の宇野辺又三郎が、名取家に養子入りした後の名は伝わりませんが、「正●」であることは慥で。この通字を見ると名取氏そのものが楠木氏の末 裔だった可能性が強くあります。
名高浦の地士宇野辺又三郎の厄介 (居候) になった兵左衛門が又三郎に名取流軍学を伝授したうえ、名取の家名をも継がせた経緯には理解しがたいものがありますが、背景を想像するに、宇野辺氏が和田楠木氏と同族の族種タチバナ氏であった故とも考えられます。
紀州藩の兵学指南役名取六之助の弟で、若い頃に紀州か江戸で楠流軍学を学んだ名取三十郎は、慶安の変の直後の承応三(一六五四)年に紀州藩から新規に召し抱えられたのです。これを見ても藩主徳川頼宜は慶安の変に少しも懲りていなかったことが分かります。
名 取三十郎の総領(実は三男)の兵左衛門邦教は享保八(一七二三)年、小十人二十石三人扶持で召出され、その子の中興三代目四郎三郎堯暢が二十五石で表御小 姓などを勤めます。名取家では、邦教と堯暢の二代に亘り、楠木氏の通字である「正」を避けたのは、正雪との関係の印象を薄めるためにしたと観るよりありま せん。

宇野辺氏が継いだ兵学指南職
宝暦十一(一七六一)年、四郎三郎堯暢が、「家伝軍学の儀は、父の兵左衛門が厄 介(居候)になった名高浦の地士宇野辺又三郎へ残らず伝授したので、譲渡したい旨、兵左衛門が存生の願いです」と願い出ます。藩はこれを認め、宇野辺又三 郎を十人組並小寄合二十石三人扶持として召出し、「名字の儀も四郎三郎より譲り受けて名取氏を名乗り、軍学流儀を指南いたすべき旨」を仰せ付けました。
こ れは江戸の旗本によくある戸籍売買ではなく、観自在公(紀州家八代徳川重倫)の取立をしばしば蒙り、遂におとも御伴ばんとう番頭格知行六百石にまで累進し た四郎三郎堯暢が、君側の御用が忙しいために門弟に兵学を教授する時間がないことを理由とし、「父が厄介になった門弟宇野辺又三郎に兵学を伝授してあるの で、兵学教授の職を又三郎に譲りたいとの父の生存時の願いを叶えたい」と許可を願い出たので、紀州藩は宇野辺又三郎に、以後は名取姓を名乗り、藩の軍学指 南に就くように指示しました。
右の経緯からすると、宇野辺又三郎が名取流の中興四代を継いだようです。その子と思われる五代兵左衛門正直は藩の高官となり、同じく六代竹之助正邦も五百石の寄合となって、結局名取家は、幕末まで紀州藩内でも大身の旗本として続きます。
天 保年間に編纂された『紀伊国続風土記』は、大野十番頭の宇野辺氏の後裔として「名取と改姓した軍学者」を挙げ、これと別個に名高村地士の箇所に宇野辺八蔵 を挙げています。これを見るに、宇野辺家の当主又三郎が名取家に入ったため、宇野辺の家督は又三郎の子弟が継ぎ、以後は代々宇野辺八蔵を称したものと思え ます。
流祖の名取輿市之丞正俊が武田家臣から転じて徳川家康に仕えたのに、やがて浪人し、晩年に信州真田へ行ったのは、真田流を学ぶためと観るべきでしょう。その子の彌次右衛門正豊も、弱年のころに諏訪因幡守に仕えましたが、後に徳川家へ奉公して紀州へ来ます。
正豊の跡を継いだ本家の六之丞が藩の兵学指南に就かず、間を置いてから弟の三十郎が新規召し抱えになり、勝手如意を口実に大野村での在宅勤務を願い出た理由は、真田流の研究とみるべきことはすでに述べました。
三 十郎の子の兵左衛門邦教が父の跡を継ぐのは死後十五年目で、総領としていますが実は三男です。これを按ずるに、当初は三十郎の長男が名取の家督を継ぎ、弟 の兵左衛門は宇野辺又三郎の家に居候して兵学を伝授していたわけで、事実上は宇野辺の養子になっていたのかもしれません。そこへ三十郎の長男に事故が生じ たので、その名を家督から抹消し、兵左衛門を宇野辺家から取り戻し、総領扱いにして名取の家督を継がせたのではないでしょうか。

  名取家は楠木正成の末裔か
養 子縁組の許可を藩に申請した四郎三郎堯暢は、養子にする宇野辺氏が名取氏と同族である旨を理由としたものと思われます。なぜなら大陸の騎馬民族は「同姓娶 らず、異姓養わず」として養子を同族に限っています。日本ではそれほど厳格ではありませんが、武士の養子縁組に際しては形式にせよ同族が入って継ぐ形を作 り、組頭を通じて主君に許可を申請しました。しかし、この名取と宇野辺の縁組の場合、両氏は本当に同族だったものと考えます。
五代兵左衛門正直 は、嘉永七年に「新御番頭・御手弓筒頭・根来頭・五十人組の頭・山家同心と申し合わせて調練を行うよう」にとの藩命を受け、また「家伝の金瘡打身薬を差し 上げ候に付き、お庭焼花瓶並びに御掛物下され」とあります。また、『紀伊国続風土記』には「家伝の金瘡打身薬は頗る有名にして負傷者常に用い、奏功少なか らず、大いに貴重せられたり」としています。
『南紀徳川史』は、名取流軍学を「流祖・甲州先手名取輿市之丞正俊→中祖・名取三十郎正澄→伝統・門弟宇野辺又三郎へ譲る→のち家元名取楠十郎へ戻す。以下代々名取子孫相伝」としています。しかしこれは表向きらしく、名取流の高弟藪谷与一郎の話として、
「流 儀の秘伝は、宇野辺又三郎→大畑喜八郎→名取兵左衛門の伯父名取楠十郎→藪谷与市→富山右門→藪谷与一郎と転々しながら維新まで流法教授をしてきたが、維 新に際し藩が兵制改革軍事方を置いたので、遂に廃物に帰し、軍学者の末路は残念なことに終わった。流儀の秘書金瘡薬方書はすっかり南龍神社に納めて、敢え て手元に置かず」と語らせています。
右の大畑楠十郎は、中興五代目の兵左衛門の伯父のようで、つまり宇野辺又三郎の養兄ということになります。と すれば、中興三代の四郎三郎堯暢は、楠十郎と謂う男子がありながら敢えて宇野辺又三郎に流派を譲り、四代目としたことになります。六百石取りに出世するほ どの四郎三郎ですから、生活に困って家の株を売ったのではなく、御側御用で忙しいだけでもないでしょう。
おそらく名取家と宇野辺家の間にもっと深い事情があるものと思われ、兵左衛門正直が宇野辺又三郎の実子なのかも判断にやや迷いますが、和歌山県立図書館の「藩士書上書」のマイクロ・フィルムで判ることですから、それまでは措いておきましょう。
名 取流は軍学とは言うものの、流祖輿市之丞正俊が家康の許を去って信濃国小県郡真田荘に赴いた目的は忍法研究だと思います。名取流軍学と聞けば何となく甲州 流の用兵術を思わせますが、何しろ望月千代女が「く之一」を養成した武田家の事ですから、当初から忍法的要素が濃かったと見た方が良いでしょう。
紀 州藩士に召し抱えられて新知二百五十石を取った彌次右衛門正豊は兵術指南として仕え、その子の六之助が跡目を継いで二百石取りました。六之助の弟の三十郎 が紀州で由比正雪からあるいは江戸の張孔堂で楠不伝から楠流兵学を学びましたが、「慶安の乱」の後、紀州藩は三十郎を小禄で新規に召し抱えて、新たに忍法 研究を命じたものと思われます。表向きの藩命は、忍法各派の流儀を総合して忍法全書を著作することでしたが、実際には薬と毒の研究を命ぜられたのではない でしょうか。

薬行商=忍者
名取家が軍学家元として製薬に携わったのは、軍学の中に「薬と毒」があるからです。
名取流家伝の金瘡薬は、軍事機密上の御止薬で売り出すものではなく、必要な人は伝手を恃んで秘かに貰い受けたのでしょう。しかも、往時の薬の販売形態はほとんど行商で、その行商は大半が忍者だったのですから、軍事学と薬学と忍法は強固なトライアングルを成していました。
真 田流について言えば、真田幸村の落胤を称する麹町光明院が真田流軍学を創めたといわれますが未詳です。大正元(一九一二)年に陸軍元帥上原勇作から個人付 特務(諜報員)を命ぜられた吉薗周蔵は、阿片原料の罌粟の研究に取り掛かり、そのために熊本医専に助手として入ります。熊本でたまたま知り合った加藤邑の 家が細川藩の薬事掛でした。熊本藩薬事部の再春館には真田流薬学が伝わっていて、加藤はその薬事書を持ち出してきて吉薗周蔵に与えました。周蔵はそれを基 に、薬草を用いて陸軍の役に立つ薬を研究します。軍用薬は何と言っても阿片粉で、忍者がこれを自白剤として用いていたことを、周蔵は加藤から教わります。
周 蔵の祖母岩切(吉薗)ギンヅルは、幕末に京都へ出て薩摩邸に住み込みの女中頭になりますが、公家の堤哲長と知合って、その妾になります。哲長の以前の妾 は、堤家に女中奉公していた町医者の娘の渡辺ウメノで、その母は丹波穴太村のアヤタチ上田家から、渡辺医師に嫁いでいたのです。
丹波穴太村の上田 家は、アマベ氏の頭領アヤタチの家柄ですが、当主上田吉松は霊媒師で、祈祷鎮魂を業として全国を回っていました。その際に使ったのが阿片だったのです。上 田吉松→いとこ渡辺ウメノ→堤哲長→吉薗ギンヅルと伝播されたアヤタチ薬学の一つの「浅山丸」は、何病に対しても恐ろしいほどの効き目がありました。
原料は、阿片の他に人間の胆嚢が主原料で、あとは生姜とか黒砂糖などのようです。江戸では伝馬町大牢の斬役山田浅衛門が製薬し、販売していた貴重薬で、その名を略した「山浅丸」とか「朝山丸」とか紛らわしい商標を用いたあやかり商法が、各地で行われていました。
右 はほんの一例で、忍者薬=軍用薬はケシなど一般には入手が難しい薬草のほか、人間の内臓および新生児の胞衣・胎盤・臍帯血などを用いると、製薬材料が余り にも特殊で利益率も比べるものがないほど高いので、製薬に関する一切を厳重な秘伝としていたのです。これを売り歩く行商にとっても、有利な商売でした。嵩 張らずに長持ちし、汎用性があって単価が高いのは、行商に最も適する商品だからです。
行基以来の現世利益思想の仏教集団が、主たる事業にしていた 寺薬の製造販売は、代表的な「散所経済」でした。製薬に携わる一方、仕入れに来た行商人に休息の場を提供していたのは西大寺の支配下にある極楽寺で、最盛 期の室町時代には、全国で千軒を超える極楽寺チェーンを展開していたのです。
薬の小売は、寺院内の小さな独立建物の薬師堂で行っていました。薬師如来信仰で薬師寺・薬王寺や東光寺と名乗る寺院は、原則として診療所を経営していました。ほかには十一面観音や千手観音信仰の寺院も同様でした。
太平の世に遭遇した名取流は、三男の名取三十郎が藩命を受けて、忍法全書の編纂を表看板にしながら忍者薬の研究製造を行っていたものと推察されます。世間で評判の名取流金瘡薬の成分は未詳ですが、消毒力の強さが絶対条件ですから、やはり水銀薬かと愚考します。
幼 い頃の私は、街中の焼け跡を裸足で走り回っていたため金瘡だらけでしたが、まだ抗生物質がなく、どの家庭にも赤チン(マーキュロクロムの水溶液)とオキシ フル(過酸化水素)があって、これでほとんど用が足りました。赤チンは微量の水銀で、あれだけの殺菌力を有しますから、往時の忍者薬にその類似品が使われ なかった筈はないと考えます。
古代から製薬用として盛んに使われた水銀と朱(硫化水銀)は、主な産地は吉野・高野山系で、和田楠木氏が流通を支配し、散所民が製造と販売を行う典型的な南朝資源でした。

   華岡青洲と和田氏家伝薬
現在でも有名な医学者に和田姓の方が多いようですが、江戸時代の華岡青洲の名を知らない人はいないでしょう。
宝 暦十(一七六〇)年に紀伊国那賀郡名手荘西野山村に医師花岡直道の子として生まれた青洲は、二十三歳で上洛して伝統の漢方医術と蘭方外科を学び、伊良子道 牛が作りあげた伊良子流の東西(漢・蘭)折衷の外科をも学びます。天明五(一七八五)年に帰郷し、父の後を継いで開業した青洲は麻酔薬の開発を始め、研究 を重ねてマンダラゲ(チョウセンアサガオ)とそう草うず烏頭(トリカブト)を主成分とする麻酔薬を開発し、「通仙散」と名付けました。
青洲の先祖は楠木氏の一族和田正之で、河内国石川郡中野村華岡に在住して華岡姓を称しましたが、主君の紀伊・河内守護畠山氏が没落したので、紀伊国那賀郡おうづ麻生津荘あか赤んた沼田に移り、その後名手荘に移ったのです。
寛 永年間には農業をしながら医業を兼営し、医薬の開発に勤しんでいました。享和(一八〇二)年、紀州藩主德川治宝から士分に登用されて帯刀を許され、文化十 (一八一三)年には小普請医師格に列して在宅勤務の「勝手勤」を許されます。それから小普請御医師になり、天保四(一八三三)年には奥医師格にまで昇進し ました。
2014-04-15 15:37:06

大野十番頭と大野荘中村の経済社会 その②


春日大明神の御由緒
大野荘には大野中村の春日大明神(上社)の外に、兄弟神社として井田村の粟田大明神(下社)がありましたが、明治時代の神社併合で春日神社に併合されました。
両 神社の性格はいわゆる氏神で春日氏の祖先を祀り、祭神の春日大明神はあまたらしひこ天足彦くに国おし忍ひと人を称しますが、『古事記』にはあめの天おした らし押帯彦とあります。粟田大明神はその「若宮」すなわち三世孫のひこ彦くにふく国葺です。両部神道時代の奥ノ院は、春日明神が幡川村の禅林寺、粟田神社 が鳥居浦の観音寺、歳越明神は山田村の菩提寺でした。
『紀伊国続風土記』が、「十番頭の家伝に、神護景雲年間に南都から春日明神を奉じて十人が来住したとあるが、中村の春日社は大春日明神であって、奈良から来るはずがない」と論じているのは、明らかに早合点で失当です。
同 業者として判ることですが、これは、『紀伊国続風土記』の編者が、社名だけを見て奈良春日大社と思い込んでいた当社の祭神が大春日明神であることを知り、 「春日大社とは無関係だから奈良から来るわけがない」と軽率にも判断したのでしょう。つまり編者は、藤原氏の権威を重く見過ぎて、奈良の春日山に春日大社 の先住者がいたとは思わなかったのですが、真相は真逆で、実際は藤原不比等に春日山麓を追われた春日神社が、当地に移ってきたのです。
春日神社のHPも十番頭の先祖を、天平三(七三一)年に聖武天皇の命により大和国南都から春日大明神を勧請して来た由緒ある小豪族集団であるとしています。これだと、『南紀徳川史』の記載と三十七年のずれがありますが、何事にも計画と実行には時差が伴って当然です。
和銅三(七一〇)年、不比等が鹿島の神タケミカヅチを奈良の春日山麓に遷して藤原氏の氏神とし、地名を採って春日大社と称します。その後、神域を広めるために聖武天皇の詔勅をかざし、先住者の春日明神を春日山麓から紀州大野荘へ遷させたのです。
春 日氏の祖神春日大明神の神名が、春日山麓に坐したゆえに春日明神なのか、それとも山麓に春日大明神が坐したから春日山と呼ぶようになったのか。先ほどアマ ベ氏と海部郷の所でも述べましたが、地名と人名の関係には、①まず、住んだ土地の地名を苗字とする場合があります。みょう苗はみょう名とも書きますが本来 は農園の意味で転じて地名を指します。例としては、「豊田の小次郎平将門」の「豊田」、「清水の次郎長本名山本長五郎」の「清水」が苗なのです。
②はその反対に、住人の姓や名を以て地名とする場合です。例えば井ノ口という地名は、橘姓井口氏が移り住んだ地域を和佐井ノ口、貴志井ノ口と呼び、それが地名になったものです。
南 都から大野荘へ移住してきた春日氏が、当地の三上山を春日山と呼んだのは、明らかに②に当ります。春日氏が姓を大春日氏に改称し、神号を大春日明神と改め たのは、権勢盛んな藤原氏の氏神春日大社を意識したと推察されますが、それもいっとき一時のことで、やがて旧の春日神社に戻ってしまったようです。
粟 田一族の出世頭は文武朝の中納言で、藤原不比等(六五九~七二〇)の右腕として知られる粟田真人朝臣(?~七一九)です。留学僧として唐で学び、帰朝した 後に再び遣唐使として渡唐しました。粟田真人が紀州日高郡の海女から探してきた美女を不比等が養女とし、文武天皇夫人藤原宮子となって七〇一年に聖武天皇 を産みます。宮子姫は髪長姫伝説のヒロインです。
不比等の意を受けた粟田真人から説得されて渋々承知した春日氏は、一族の十人が春日明神を奉じて 替地の紀州大野荘に移りますが、同族の仲介とはいえ、氏神の土地を奪われてはハラが治まらず、姓を大春日臣と改称し、一時は春日明神に「大」を冠して春日 大社を見下すことで、秘かに快哉を叫んだのでしょう。
当社はしかし、結局春日明神の神号を変えず、藤原氏に対する無言の抵抗を示しながら存続して きた強固な信念は日本史上では稀なことで、頭が下がります。しかも、その祭祀は天保年間に至ってもなお古式を守り、巷間の神社にしばしば見られるように稲 荷・八幡・金毘羅・弁天・白山のごときを一切祀っていません。
主祭神を「正一位春日大神」すなわちあまたらしひこ天足彦くに国おし忍ひと人命(天おしたらしひこ押帯彦命)に限り、社殿は三扉で、合殿の末社「若宮」は、粟田明神すなわち春日明神の三世の孫のひこくにふく彦国葺命を祀ります。
と ころで、合殿にはもう一座「歳越明神」があり、山田村菩提寺を奥ノ院としますが神名は不明で、『紀伊国続風土記』が、「いにしえ古はまた亦本社に配して著 しかりし社と見へたり」と謂うのは、タダモノとは見えないとの意味で、造営以来なか中どの殿を空殿としている理由を、元弘元年の大晦日をこの社殿で越した 大塔宮の故事に因み、宮を尊敬する後人が祀ったもの、と推定しています。

   十番頭のその後
元弘二年元旦、春日神社に集まった十番頭に各家の由緒を訪ねた大塔宮は、それぞれふさわしい受領名を書いた紙を与え、「倒幕が成就した暁には、この通りの所領を恩賞として与える」旨を約束しました。
天平三(七三一)年春日氏の十人が大野荘に入って以来、六百年を経て星霜は移り、人は去来しました。三上院と称する大荘園の一部となった大野荘では、十番頭の子孫が神官から新興社会勢力の武士に変じ、氏神の神官団と大野荘の荘官を兼ねて、この地を実効支配します。
そ の根拠地が、「中村」の地名で呼ばれることが取りも直さず、ここが「散所経済」の中心地になったことを示しています。因みに、現在の名古屋市中村区すなわ ち尾張国中村は、俗に豊臣秀吉の出身地と言われていますが、「中村」の地名こそ、荘園経済の中心部を示す普通名詞的な地名で、ここに収入の機会を求めて集 まってきた無籍非農業民たちの営む雑多な経済活動が、散所経済を展開させていくのです。
建武新政の後に紀伊国守護となった畠山氏が居館を置いた大 野荘中村には、秀吉の紀州攻めまで守護の居城があり、紀伊国の首都になります。由来紀州の地は、室町幕府の派遣する守護が数ケ国を兼務ししかも短期間で交 替したので、守護大名の勢力が伸びず、春日明神の氏神信仰に生きる宮座衆が同族の精神的紐帯を保ってきた大野十番頭は、土豪としての地位をさらに強化して いき、その勢力を戦国期まで根強く保ち続けました。
その後、信長の紀州雑賀攻めに際して、信長方の日方勢と反信長の名高勢に分かれた十番頭は、天 正五(一五七七)年八月十六日、現在の海南駅辺りの「井の松原」で合戦しました。鳥居浦の稲井・尾崎、日方浦の田島、名高浦の宇野辺、井田村の井口らは信 長方に加勢し、一方雑賀党の大将雑賀孫市の率いる名高方には日方浦の石倉、大野中村の中山が加わりましたが、結局日方勢が大敗して十番頭の多くは討死し、 双方で二百人を越える戦死者を出しました。
天正十二(一五八四)年、小牧長久手の戦いで織田・徳川の連合軍に破れて和睦した豊臣秀吉は、後顧の憂 いを絶つため、翌年三月に紀州征伐に乗り出して根来衆・雑賀衆及び紀伊国中の緒豪族を平定し、雑賀荘の岡山にわか稚やま山城を築造し、大和大納言秀長の出 城とします。すなわち和歌山城で、後に浅野氏の居城となり、さらに紀伊中納言徳川頼宜が入ります。
この戦いで、春日神社のご神体の御鏡を携えて紀伊長島へ落ちた石倉氏は、その地に磐倉(石倉)神社を建てて天押帯日子を祀り、その後は漁民の有力者として今に至っています。
秀吉により紀州に封ぜられた浅野氏は、永く土豪が割拠してきた紀州を難治の地と視て、旧領主の三十六人を地士に挙げて好待遇しますが、後継領主の徳川氏もこれに倣い、元和八(一六二二)年に人数を増やして「地士六十人者」とします。
大野十番頭のうちから六十人者に選ばれたのは、井口善太夫・稲井左兵衛・尾崎次左衛門でしたが、元禄十四(一七〇一)年には名高浦の石倉久太郎・日方浦の藤田伊七郎・鳥居浦の坂本金大夫、中村の宇野辺又三郎の四人も六十人地士に召し出され、以後明治維新まで続きます。
残る三名のうち地士に選ばれなかった日方浦田島氏は、『紀伊国続風土記』に旧家として挙げられており、維新後に末裔田嶋一雄がミノルタカメラを創業します。また三上氏は春日神社の神官として残りま、純粋に廃絶したのは中山氏だけのようです。
古代の神官が荘園武士大野十番頭として戦乱の中世を生き抜き、今日まで残ったのは、日本史上でも真に稀な例ですから、紀州郷土史の狭い範囲に留まらず、日本中世史の重要な研究対象とすべきものと思われます。
十番頭の中には、養子縁組や婚姻によって入った他姓が、伝来の苗字と氏神の奉祀を継いできた例もあるでしょうが、その他姓にしても素性を熊野海人族と観て良い理由は、①十番頭の家祖春日氏が海民族であること、及び②その後も本拠を海辺の漁村に置いてきたことです。
大 塔宮から壱岐守の受領名を拝領した井口氏は族種が明確で、シュメル発祥の巨石太陽崇拝文明系のうち、いわゆる「石屋」といわれるコスモポリタン族です。そ の石屋が和邇氏に入っていたのは、縄文海民として広く同族関係だからで、不自然はありません。十番頭の一人が橘姓井口氏だったことを以て、残りの九人につ いても大凡の見当が付くように思います。
2014-04-15 15:35:48

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