「紀伊國名所図会」 江戸時代(文化8年)図 
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春日の森
 
 春日の森は、鎮守の森として多くの人々によって守られてきた森林です。
 この森にはホルトノキ、ツガ、シイ、クスノキなどの大きな木が生いしげり、昆虫は本州では春日の森だけに住んでいるネジロツブゾウムシという珍しい虫やカネコトタテグモなど貴重な生物が成育しています。
 この森は昔から木を切ることなく大切に守り続けられたので、貴重な生物、樹木などが残るとして、平成九年に海南市の指定文化財(天然記念物)に指定されています。 
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春日神社十番頭祭:海南中世史講座

応仁の乱と紀伊








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大野十番頭と大野荘中村の経済社会 その②


春日大明神の御由緒
大野荘には大野中村の春日大明神(上社)の外に、兄弟神社として井田村の粟田大明神(下社)がありましたが、明治時代の神社併合で春日神社に併合されました。
両 神社の性格はいわゆる氏神で春日氏の祖先を祀り、祭神の春日大明神はあまたらしひこ天足彦くに国おし忍ひと人を称しますが、『古事記』にはあめの天おした らし押帯彦とあります。粟田大明神はその「若宮」すなわち三世孫のひこ彦くにふく国葺です。両部神道時代の奥ノ院は、春日明神が幡川村の禅林寺、粟田神社 が鳥居浦の観音寺、歳越明神は山田村の菩提寺でした。
『紀伊国続風土記』が、「十番頭の家伝に、神護景雲年間に南都から春日明神を奉じて十人が来住したとあるが、中村の春日社は大春日明神であって、奈良から来るはずがない」と論じているのは、明らかに早合点で失当です。
同 業者として判ることですが、これは、『紀伊国続風土記』の編者が、社名だけを見て奈良春日大社と思い込んでいた当社の祭神が大春日明神であることを知り、 「春日大社とは無関係だから奈良から来るわけがない」と軽率にも判断したのでしょう。つまり編者は、藤原氏の権威を重く見過ぎて、奈良の春日山に春日大社 の先住者がいたとは思わなかったのですが、真相は真逆で、実際は藤原不比等に春日山麓を追われた春日神社が、当地に移ってきたのです。
春日神社のHPも十番頭の先祖を、天平三(七三一)年に聖武天皇の命により大和国南都から春日大明神を勧請して来た由緒ある小豪族集団であるとしています。これだと、『南紀徳川史』の記載と三十七年のずれがありますが、何事にも計画と実行には時差が伴って当然です。
和銅三(七一〇)年、不比等が鹿島の神タケミカヅチを奈良の春日山麓に遷して藤原氏の氏神とし、地名を採って春日大社と称します。その後、神域を広めるために聖武天皇の詔勅をかざし、先住者の春日明神を春日山麓から紀州大野荘へ遷させたのです。
春 日氏の祖神春日大明神の神名が、春日山麓に坐したゆえに春日明神なのか、それとも山麓に春日大明神が坐したから春日山と呼ぶようになったのか。先ほどアマ ベ氏と海部郷の所でも述べましたが、地名と人名の関係には、①まず、住んだ土地の地名を苗字とする場合があります。みょう苗はみょう名とも書きますが本来 は農園の意味で転じて地名を指します。例としては、「豊田の小次郎平将門」の「豊田」、「清水の次郎長本名山本長五郎」の「清水」が苗なのです。
②はその反対に、住人の姓や名を以て地名とする場合です。例えば井ノ口という地名は、橘姓井口氏が移り住んだ地域を和佐井ノ口、貴志井ノ口と呼び、それが地名になったものです。
南 都から大野荘へ移住してきた春日氏が、当地の三上山を春日山と呼んだのは、明らかに②に当ります。春日氏が姓を大春日氏に改称し、神号を大春日明神と改め たのは、権勢盛んな藤原氏の氏神春日大社を意識したと推察されますが、それもいっとき一時のことで、やがて旧の春日神社に戻ってしまったようです。
粟 田一族の出世頭は文武朝の中納言で、藤原不比等(六五九~七二〇)の右腕として知られる粟田真人朝臣(?~七一九)です。留学僧として唐で学び、帰朝した 後に再び遣唐使として渡唐しました。粟田真人が紀州日高郡の海女から探してきた美女を不比等が養女とし、文武天皇夫人藤原宮子となって七〇一年に聖武天皇 を産みます。宮子姫は髪長姫伝説のヒロインです。
不比等の意を受けた粟田真人から説得されて渋々承知した春日氏は、一族の十人が春日明神を奉じて 替地の紀州大野荘に移りますが、同族の仲介とはいえ、氏神の土地を奪われてはハラが治まらず、姓を大春日臣と改称し、一時は春日明神に「大」を冠して春日 大社を見下すことで、秘かに快哉を叫んだのでしょう。
当社はしかし、結局春日明神の神号を変えず、藤原氏に対する無言の抵抗を示しながら存続して きた強固な信念は日本史上では稀なことで、頭が下がります。しかも、その祭祀は天保年間に至ってもなお古式を守り、巷間の神社にしばしば見られるように稲 荷・八幡・金毘羅・弁天・白山のごときを一切祀っていません。
主祭神を「正一位春日大神」すなわちあまたらしひこ天足彦くに国おし忍ひと人命(天おしたらしひこ押帯彦命)に限り、社殿は三扉で、合殿の末社「若宮」は、粟田明神すなわち春日明神の三世の孫のひこくにふく彦国葺命を祀ります。
と ころで、合殿にはもう一座「歳越明神」があり、山田村菩提寺を奥ノ院としますが神名は不明で、『紀伊国続風土記』が、「いにしえ古はまた亦本社に配して著 しかりし社と見へたり」と謂うのは、タダモノとは見えないとの意味で、造営以来なか中どの殿を空殿としている理由を、元弘元年の大晦日をこの社殿で越した 大塔宮の故事に因み、宮を尊敬する後人が祀ったもの、と推定しています。

   十番頭のその後
元弘二年元旦、春日神社に集まった十番頭に各家の由緒を訪ねた大塔宮は、それぞれふさわしい受領名を書いた紙を与え、「倒幕が成就した暁には、この通りの所領を恩賞として与える」旨を約束しました。
天平三(七三一)年春日氏の十人が大野荘に入って以来、六百年を経て星霜は移り、人は去来しました。三上院と称する大荘園の一部となった大野荘では、十番頭の子孫が神官から新興社会勢力の武士に変じ、氏神の神官団と大野荘の荘官を兼ねて、この地を実効支配します。
そ の根拠地が、「中村」の地名で呼ばれることが取りも直さず、ここが「散所経済」の中心地になったことを示しています。因みに、現在の名古屋市中村区すなわ ち尾張国中村は、俗に豊臣秀吉の出身地と言われていますが、「中村」の地名こそ、荘園経済の中心部を示す普通名詞的な地名で、ここに収入の機会を求めて集 まってきた無籍非農業民たちの営む雑多な経済活動が、散所経済を展開させていくのです。
建武新政の後に紀伊国守護となった畠山氏が居館を置いた大 野荘中村には、秀吉の紀州攻めまで守護の居城があり、紀伊国の首都になります。由来紀州の地は、室町幕府の派遣する守護が数ケ国を兼務ししかも短期間で交 替したので、守護大名の勢力が伸びず、春日明神の氏神信仰に生きる宮座衆が同族の精神的紐帯を保ってきた大野十番頭は、土豪としての地位をさらに強化して いき、その勢力を戦国期まで根強く保ち続けました。
その後、信長の紀州雑賀攻めに際して、信長方の日方勢と反信長の名高勢に分かれた十番頭は、天 正五(一五七七)年八月十六日、現在の海南駅辺りの「井の松原」で合戦しました。鳥居浦の稲井・尾崎、日方浦の田島、名高浦の宇野辺、井田村の井口らは信 長方に加勢し、一方雑賀党の大将雑賀孫市の率いる名高方には日方浦の石倉、大野中村の中山が加わりましたが、結局日方勢が大敗して十番頭の多くは討死し、 双方で二百人を越える戦死者を出しました。
天正十二(一五八四)年、小牧長久手の戦いで織田・徳川の連合軍に破れて和睦した豊臣秀吉は、後顧の憂 いを絶つため、翌年三月に紀州征伐に乗り出して根来衆・雑賀衆及び紀伊国中の緒豪族を平定し、雑賀荘の岡山にわか稚やま山城を築造し、大和大納言秀長の出 城とします。すなわち和歌山城で、後に浅野氏の居城となり、さらに紀伊中納言徳川頼宜が入ります。
この戦いで、春日神社のご神体の御鏡を携えて紀伊長島へ落ちた石倉氏は、その地に磐倉(石倉)神社を建てて天押帯日子を祀り、その後は漁民の有力者として今に至っています。
秀吉により紀州に封ぜられた浅野氏は、永く土豪が割拠してきた紀州を難治の地と視て、旧領主の三十六人を地士に挙げて好待遇しますが、後継領主の徳川氏もこれに倣い、元和八(一六二二)年に人数を増やして「地士六十人者」とします。
大野十番頭のうちから六十人者に選ばれたのは、井口善太夫・稲井左兵衛・尾崎次左衛門でしたが、元禄十四(一七〇一)年には名高浦の石倉久太郎・日方浦の藤田伊七郎・鳥居浦の坂本金大夫、中村の宇野辺又三郎の四人も六十人地士に召し出され、以後明治維新まで続きます。
残る三名のうち地士に選ばれなかった日方浦田島氏は、『紀伊国続風土記』に旧家として挙げられており、維新後に末裔田嶋一雄がミノルタカメラを創業します。また三上氏は春日神社の神官として残りま、純粋に廃絶したのは中山氏だけのようです。
古代の神官が荘園武士大野十番頭として戦乱の中世を生き抜き、今日まで残ったのは、日本史上でも真に稀な例ですから、紀州郷土史の狭い範囲に留まらず、日本中世史の重要な研究対象とすべきものと思われます。
十番頭の中には、養子縁組や婚姻によって入った他姓が、伝来の苗字と氏神の奉祀を継いできた例もあるでしょうが、その他姓にしても素性を熊野海人族と観て良い理由は、①十番頭の家祖春日氏が海民族であること、及び②その後も本拠を海辺の漁村に置いてきたことです。
大 塔宮から壱岐守の受領名を拝領した井口氏は族種が明確で、シュメル発祥の巨石太陽崇拝文明系のうち、いわゆる「石屋」といわれるコスモポリタン族です。そ の石屋が和邇氏に入っていたのは、縄文海民として広く同族関係だからで、不自然はありません。十番頭の一人が橘姓井口氏だったことを以て、残りの九人につ いても大凡の見当が付くように思います。
2014-04-15 15:35:48