「紀伊國名所図会」 江戸時代(文化8年)図 
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春日の森
 
 春日の森は、鎮守の森として多くの人々によって守られてきた森林です。
 この森にはホルトノキ、ツガ、シイ、クスノキなどの大きな木が生いしげり、昆虫は本州では春日の森だけに住んでいるネジロツブゾウムシという珍しい虫やカネコトタテグモなど貴重な生物が成育しています。
 この森は昔から木を切ることなく大切に守り続けられたので、貴重な生物、樹木などが残るとして、平成九年に海南市の指定文化財(天然記念物)に指定されています。 
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春日神社十番頭祭:海南中世史講座

応仁の乱と紀伊








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大野十番頭と大野荘中村の経済社会


後醍醐と文観の社会・経済思想
 西大寺流律宗教団が鎌倉時代から大きな社会勢力となったのは、貨幣経済の浸透による商品流通が年を追って伸張したためで、これを担う非農業民の経済的実力が増大し、それに応じてその社会的勢力も盛んになってきたからです。
後醍醐天皇の倒幕行動を、「復古的権力意欲から天皇親政を目指した」とか、「宋学にかぶれて絶対王政に憬れた」と評する史家には、貨幣の浸透により流通産業が勃興して、経済・社会の構造変化が生じていく当時の「散所経済」(=非人経済)が見えていないのです。
後醍醐天皇の政治参謀になった文観は、般若寺で律宗を学び、宗教活動の拠点を真言密教の醍醐寺に置いた高僧です。文観は西大寺流律宗(真言律宗)の大幹部ですから、早くから「散所経済」の勃興を見通しており、それによる時勢の変化を洞察していたのです。
社 会改造を目指すための倒幕という点で後醍醐天皇と合意した文観は、早くから綿密周到な倒幕計画を立て、そのための基盤作りに力を尽し、笠置挙兵の前には真 言密教と西大寺流律宗の根回しをすっかり終えていたのです。したがって、西大寺ネットワークの地域本部的存在だった禅林寺の支援も、挙兵前にすでに取り付 けていたのです。南朝方が幡川禅林寺を頼りにしたことは、「禅林寺文書」として嘗て存在した後醍醐天皇綸旨や、現存する後村上天皇の綸旨が証明していま す。
さて、土師部勢力を受け継いだ行基集団の政治的な狙いと業績に、教科書史観はいまだ注目しておらず、武士の田畑の奪い合いが日本史の中心に置 かれています。しかし、田畑山林は日本社会の半分に過ぎず、残りの半分は、水産漁業は固より商業・流通・運輸・製造・土木・建築・治療・介護・芸能・葬 送・宗教など雑多な諸事業を包含した非農業世界なのです。
この非農業世界を無視した日本史は「荘園経済史」に陥ってしまい、そうなると南北朝時代の本質が見えなくなります。南北朝の対立は単なる皇室内の相続争いでなく、背後に田畑(農業)経済と散所経済(非農業経済)の対立に名指す社会勢力の対立だからですからです。
鎌 倉時代の宋銭・元銭の大量流入により、散所経済に著しい勃興の動きを見たのが後醍醐天皇と文観でした。散所経済を日本社会に然るべく位置付けて、経済社会 の適正な発展を図るための政治制度を造ること、これが「大塔政略」の根底にあった政治思想で、それを体現するための方策が「大塔政略」だったのです。
さ て、その「大塔政略」に則って、笠置山から紀州路に入り、調月村字和田の井口左近館に極秘本営を構えた大塔宮は、紀州各所にシノビを放ち土豪・悪党勢力の 向背を窺います。その一方で井口左近に依頼したのは、大野荘中村の春日神社宮座衆の一人で井田村に居館を構える同族井口氏の支援を取り付ける工作でした。
これが成功して井田村井口氏が御味方に付くと、さらに井田井口氏を通じて朋輩の大野十番頭の調略に掛かります。なにしろ宮の一行は、鎌倉幕府に楯突いたお尋ね者ですし、十番頭は郷士ながら形式的にせよ、幕府の下知に遵う立場ですから、油断はできません。

大野十番頭
元 弘元年の大晦日に大塔宮の一行が大野荘幡川村の禅林寺に入ったのは、偶然に立ち寄ったのではなく、大野十番頭の支援を取り付けるためでした。大野十番頭と は、名草郡大野荘中村の三上山に坐す春日明神の宮座衆で、大野荘周辺の田畑山林を共有して輪番で管理に当っていた十人の領主です。名草・那賀両郡にかけて 当時の新興勢力であった大野十番頭こそ、大塔宮が挙兵の当初からアテにしていた兵力でした。
「大野十番頭などと謂う武士団なぞ聞いたこともない」 と言われそうですが、慥に今では地元でも子孫やその関係者以外には知る人もいません。仁坂県令にしても、当節は財政問題で頭が一杯で紀伊国の過去に関心は 乏しいと聞きますが、県政の基本に地誌を位置づける必要はないのでしょうか。これは和歌山県が売り物にしている熊野古道の歴史と密接な絡むテーマなので、 将来の地域発展のためにも関心を以て貰いたいものです。
さて、荘園制度の発足と同時に荘園内の治安担当者として発生した武士階層は、荘園の法的支 配者たる領家・本所の家臣となり、あるいは荘園管理を受託する荘官となりますが、平安中期には荘園内の所領や年貢を侵奪する実力行使(押領)を始め、自ら を公的権威で修飾するために「庄司」や「公文所」を称します。
一方鎌倉幕府は、配下の守護と律令制上の国司及び領家・本所との対立を回避するため に、犯罪者捜索のために荘園に立ち入る守護の権限を制限する治外法権を特定の荘園に認め、これを「守護不入」と称したのが、散所存在の法的根拠となりまし た。当然ながら犯罪者などが逃げ込んでくる守護不入の散所の治安を一任された荘官は、やがて封建領主に向かって歩み始めます。
神護景雲二(七六八)年に南都から春日大明神を供奉してきた十人の和邇氏は、本来神官だったのですが、荘園制の進展していく中で子孫が荘官となり、やがて大野十番頭と称して領主化したのが鎌倉末期の実情でした。
大塔宮挙兵の前に、文観から西大寺系寺院のネットワークを通じて支援要請を受けた禅林寺は、春日神社の奥ノ院として大野荘の荘園管理事務所でもあったので、大野十番頭を宮支援に導く工作を進めていました。
禅林寺と井口左近の両側から行っていた十番頭工作の、成功の知らせが禅林寺から秘密本営に届くと、これを待っていた大塔宮一行は、大晦日にも拘らず、幡川村に禅林寺を訪れます。
禅 林寺から、「明けて元旦に春日神社の神前でお待ち申し上げ候」との十番頭の申し出を伝えられるや、そのまま三上山に登り、春日大明神の社殿で元弘元年を越 しました。一夜明けて元弘二(一三三二)年元旦、春日神社の社頭に勢揃いした大野十番頭の前に、熊野参詣を装った山伏姿の大塔宮一行が現われて十番頭を引 見する段取りは、すべて禅林寺が行ないました。
何と言っても宮の一行は落武者でお尋ね者ですから、荘官の武士たちと直接連絡を取るわけにはいか ず、禅林寺が根回しをしたのです。禅林寺が仲介のみならず情報中継にも当ったのは、当時は西大寺配下の寺院が行商の拠点であり、出入りする行商たちは全員 がシノビを兼ねて諜報活動に当っていたからです。
十番頭は、前以て開いた宮座衆の総会で全員が宮方支援に一致していましたから、春日神社の神前で一人残らず宮への忠誠を誓い、その後紀北方面の大塔宮軍の中核部隊として、鎌倉幕府方を相手に奮戦したことが伝わりますが、戦闘の具体的な状況は明らかにされていません。

    十番頭の氏姓鑑識
元弘二年元旦の大野十番頭の本拠地及びその姓名と、爾来五百二十年経った天保年間の現状を、『紀伊国続風土記』は下記のように記しています。
(   )内は『紀伊国続風土記』が記した大野十番頭の天保年間の現状です。太字は落合注で原書にはありません。

鳥居浦    三上美作守(断絶)・・・・・・・・・・・・・・・春日神社神官として存続  
稲井因幡守(鳥居浦地士) 
但馬丹後守(日方浦地士) ・・・・・・・・末裔が株ミノルタを創業 
坂本讃岐守(田中荘打田村地士)  
石倉石見守(断絶)・・・・・・・・・・・・・・・北牟婁郡紀伊長島にて漁組理事長
神田浦   尾崎尾張守(黒江村・六十人地士)
   井田村   井口壱岐守(小倉荘満屋村地士)  ・・・・・井口右京太夫・末裔は井口医院
中村     宇野辺上野守(改め名取姓・紀州藩軍学者) 
                             ・・・・・・原書は名高浦地士に宇野部八蔵
             中山出羽守(断絶)
   幡川村    藤田豊後守(日方浦地士) 
 
  右によれば十番頭のうち、農村を本拠とする者は四人で、残る六人は浦(漁村)を本拠としています。このことからまず察せられるのは、大半が海民系であるこ とです。しかも、宇野辺氏はやがて大野中村から名高浦に本拠を移し、井口氏が熊野発祥の橘氏であることは自明で、この両所も明らかに海民です。つまり十人 中の少なくとも八人は海民族と観て良いようです。
春日大明神の宮座(神官)衆の大春日氏は、和邇氏の集住地の大和国添上郡和邇邑(現・天理市和爾 町)を本貫とする和邇氏の分派で、六世紀ころに奈良春日山麓に移住して春日氏と称し、後に春日姓から和邇姓に変じ。欽明朝に再び春日に改姓したと言われま す。山城国おたぎ愛宕郡粟田郷を根拠地として粟田氏を称するのは、その後のことかと思います。
開化天皇夫人でひこいます彦坐のみこ王の母のははつひめ姥津媛を出した和邇族は、古くから天皇妃を供給してきた家系です。系図では丹波・丹後のあまべ海部氏と近縁の海人族ですが、諸般の事情に鑑みると縄文系海人と考えられます。
大和朝廷での和邇氏の職能を、埴輪など祭祀土器製作集団を率いた山陵管理や、古墳埋葬者の事績の伝承とする説があり、私はこれに左袒しますが、果してこの通りならば正に土師氏集団(広義の土師氏)の一角を担っていた族種です。
因みに和邇氏は、百済から「論語」「千字文」を伝えたと謂われる王仁博士とは無関係で、王仁氏の末裔は西文氏および書氏を称し、前者から有名な行基が出ています。

 和邇氏は縄文系海人族
大 野中村(現・海南市大野中)にま坐す春日神社に神官として今も在住する三上氏こそ、天平以来春日氏が連綿として当地を支配してきた史実の生き証人です。当 地にいた廃絶中山氏が春日氏でない理由は乏しく、この両所も縄文系の海人族となれば、十番頭の全員を族種的に「海民族」と観てよいわけで、結局、十番頭は 家系図上も族種的にも生粋の縄文海人衆と見てよく、ゆえに熊野発祥の和田楠木氏と近縁と思われます。
さて春日氏の母族の和邇氏は、海神の御使のワニ(鮫)をトーテムとする生粋の海民で、第五代孝昭天皇の皇子あまたらしひこ天足彦くに国おし忍ひと人を祖神として祀り、同族に小野氏・大宅氏さらに丸・丸子の各氏があります。
小野氏は小野妹子・小野篁・小野小町・小野お通で知られるように、宮廷でも頭角を顕しましたが文学的才能に恵まれ、個性的人物が多いのが族種的特徴です。百人一首の中で第十一番小野篁を私が一番好きなのは、海人族の臭いがするからです。
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟  小野篁

か の毒舌で知られた社会評論家大宅壮一が出口王仁三郎に会見を求めて、『出口王仁三郎訪問記』を著しましたが、「大宅は出口と会い、瞬時に自分も出口と同族 と知った」と評した人がいます。出口王仁三郎はアマベ族の族長アヤタチ上田吉松の孫ですから、和邇氏の子孫大宅氏とアマベ氏との間に遺伝的共通性があると すれば、アマベ氏と和邇氏の混血により形成された同族関係のためでしょうか。
丹波穴太村のアヤタチ上田家の伝承では、イスラエル王国の十支族のうち、海路日本に到達したのがアマベ氏とモノノベ氏で、物部氏はニギハヤヒを奉じて石切神社を建て、アマベ氏はホアカリを奉じて籠神社を建てました。
あ まべ海部の姓は全国の海民の支配者として称した姓ですが、イスラエル十支族の一つアマベ氏が、在来の海人を支配するために海部郷を造ったのか、あるいは、 元々あった海部郷を支配下に置いたためにアマベ氏を称したのか因果関係が判りません。ゆえに、アマベ氏に支配されたという海人族の素性がまだハッキリ判り ません。
ともかくアマベ氏は、丹後半島から始め近江から近畿・東海地方にかけて開拓した集落に祖神ホアカリを祀る社を建て、これをイセ(伊勢)と 名付けます。このイセの名はイスラエルに因んだものと観て間違いないでしょう。このイセ集落(その後、元伊勢と称す)は基本的には水田耕作を主とする倭人 の弥生集落ですから、アマベと弥生倭人の間には深い関係があることは瞭然です。したがって、私はアマベが大陸沿岸で倭人を配下に置き、丹後半島渡来に際し て倭人を引率してきたとの説を立て、その後雑誌に発表していますが、まるきり反応はありません。
         古イスラエル王国の十二支族から、一神教に固執した二支族が独立してユダ王国を建て、残された十支族がアッシリアに滅ぼされて東方に流移した経緯は、拙著『金融ワンワールド』をご一読ください。

日本列島の海人には幾つかの種類があり、応神天皇に反抗したアマベ氏が海民のみこともち宰を応神によって罷免された時、代わって安曇氏の大浜宿禰が海民のみこともち宰に就いたのは、アマベ氏の配下でなかったからと思われます。
アマベ氏支配下の海部と、縄文系海人の安曇氏との族種が異なることは、全国の海辺に安曇・熱海・渥美などの安曇郷と海部郷が別々に存在し、しかも場所によっては並んでいるのを見れば、容易に推断されます。
ま た『紀伊国神名帳』に見える伊勢部柿本神が、和邇氏の分流柿本氏と伊勢部の深い関係を窺わせます。『古事記』の応神天皇条に海部と並んで設置したとある伊 勢部は、海部と同じく漁労職能民で、西日本に分布する海部に対して、伊勢部は伊勢を本拠として東国に分布していることからも、和邇氏がアマベの配下でな く、安曇系と同じく縄文海民であることが容易に推定されます。
因みに、所在不明の伊勢部柿本神社の神号を、明治二年から大野荘日方浦の産土神社が称しています
2014-04-15 15:34:18

第三章  史上最大の謎・伏見殿と天海大僧正


皇室を南朝末裔という『寧府紀事』
幕末維新について述べる予定の『落合秘史Ⅰ』を、ひとまず大政奉還のところで打ち切りにして、維新以後を後回しにしたのが本稿です。
二巻に分けた理由は、単に紙数が尽きただけではありません。明治維新の核心たる大政奉還に、榎本武揚が深く関わっていたことを推察した私は、榎本を十分に究明したうえで、『落合秘史Ⅱ』の骨子にしようと考えました。
そこで榎本が属していた幕府海軍の要人、すなわち勝海舟・澤太郎左衛門・小野友五郎らの究明に取り掛かりましたが、非力の私には手段が所詮限られています。二進も三進も往かなくなって「さる筋」に接触したところ、驚くべき示唆を得ました。
それが「伏見宮家が閑院宮流皇室から海外ネットワークを委ねられていた」という歴史ジグソーパズルの断片なのです。
勿論これだけでは意味不明ですから、その際に仄聞した人物評を下記に列挙します。順番は生年順です。

矢野玄道    朝彦親王とは幼年から没年まで表裏の裏に徹している。
勝海舟     大政奉還後の慶喜安泰を奉還前に保全した幕臣。
   朝彦親王    伏見系海外ネットワークと幕臣を結んだ役者。
   岩倉具視    吉田神道系シャーマニズムの代表格に登るシャーマン。
   小栗忠順    幕臣中で矢野系シャーマニズムを体得した第一人者。
   副島種臣    矢野系シャーマニズムに従い大隈重信の兄貴格となる。
   徳川慶喜    朝彦親王ラインで小栗を岩倉と結ぶよう榎本に命じる。
   大隈重信    落合論文の洞察に大過はないが榎本の情報整理が必要。
   徳川家茂    落合論文の仮説が証明される日は必ず訪れる。

『落合秘史Ⅰ』の公刊は平成二十四年十一月二十九日です。その時点での私は、大方の読者諸兄姉と同じで、わが皇室は室町時代の伏見宮家から始まる北朝の血統と信じ込んでいて、これを毫も疑いませんでした。
ところが、『落合秘史Ⅰ』を読んだ知人の国文学者から、たまたま教示があり、明治大学教授徳田武の著書『朝彦親王伝』を一覧するようにと勧められました。同書によって川路聖謨の『寧府紀事』を知った私は、これを契機として南北朝の真相究明に取り組みました。
結 論として、伏見宮家(正式名称は伏見殿)が実は北朝の血統ではなく、南朝の大塔宮から始まることを知りました。その詳細をまとめた『落合秘史・別巻南北 朝』の公は本年の四月五日でした。このような驚天動地の新説を、僅か二カ月余りで発表できたのは吾ながら驚きですが、すべては「さる筋」から仄聞した史的 ジグソーパズルに端を発しているのです。
本稿が度々言及する「さる筋」については、『落合秘史Ⅰ』及び『落合秘史別巻・南北朝』をご覧ください。
 
  近世精神界が直面した神仏の対立
本稿は、『落合秘史・南北朝』がこのたび初めて明らかにした史実の上に成り立っていますから、諸兄姉はまず同書を読まれ私の南北朝論を頭に入れてから、本著を読まれることをお願いします。
さて、右の「史的ジグソーパズルの断片」のうちの一文を、以下に掲げます。

豊臣秀吉が吉田神道系の明神号で祀られたため、権現を号する山王一実神道系との間が不穏となり、それを祓うために徳川家康が江戸開府を命ぜられた。
室町時代末期は、イエズス耶蘇会によるキリスト教シャーマニズムの侵攻が最大の国難であった。家康は内憂外患を取り払うため、内政では南光坊天海と金地院崇伝に在来宗教の棲み分け策を案じさせ、外交では鎖国策によりキリスト教シャーマニズムの侵攻を防止した。

右の一文の前段は、豊臣秀吉が吉田神道系の明神号で祀られたため、神号を権現とする山王一実神道系(密教系両部神道)との間が不穏となり、それを治めるために、家康が江戸に移って幕府を開くことを命じられた、との意味です。
慶 長三(一五九八)年八月、伏見城で薨去した秀吉は、後陽成天皇から豊国大明神の神号を賜ります。明神号は卜部系吉田家の司る吉田神道によるものですが、吉 田神道は「唯一神道」とも謂い、古来亀卜を事とした卜部氏の後裔吉田氏が、祖神あめのこやね天児屋命から伝えられた正統神道として、「吾国開闢以来唯一神 道是也」と謳います。
秀吉より五歳年下の徳川家康が、元和二(一六一六)年駿河で薨去すると、その神号を巡って南光坊天海が山王一実神道により権 現号を推薦し、吉田神道による明神号を主張する金地院崇伝が激しく論争します。根本にあるのは神道と仏教の対立ですが、天海が「葬儀を天海に委ねる」との 家康の遺書を持ち出した上に、「豊国大明神を見よ!」との一言が二代将軍秀忠を動かして東照大権現に決着しました。
古神道系の吉田神道と本地垂迹 説の両部神道との対立は秀吉の生前から存在していましたが、秀吉が明神号で祀られたことにより激化したので、これを祓うために家康が関東移住を命ぜられた というものです。つまり、権現の採用は家康の生前に既に決まっていた訳で、その証拠が家康の遺言なのです。
家康が権現号を以て祀られたと観るや、天下の大勢は一斉に山王一実神道になび靡き、吉田神道は一時見る影もなく衰退します。これが不穏を取り除いた結果ということです。

   家康の陣営に天海を派遣
天海については、出自・生年・前歴など未公開の史実が余りにも多いので、今回は抜本的に調査しました。とは言っても、私には何の手掛かりもありませんが、多少のコネがありますから、下記の真相を知ることができました。
まず通説を一覧してみましょう。
天 海の足跡が一部にせよ、明らかにされているのは、天正十六(一五八八)年に武蔵国入間郡川越城下の天台宗無量壽院の北院(現在、川越市喜多院)に入ってか ら後のことです。それまでは随風と称していて、この時に初めて天海と称したとされますが、二年後に江戸崎不動院の住持になった時には「随風」を称しその後 天海に改めたとされてますから、本稿は一五九〇年に天海と改号したと判断します。
常陸国信太郡江戸崎の地は平将門の昔より、紀州熊野から移住した海民系の族種タチバナ氏が蟠踞するいわゆる常陸南朝の根拠地です。そういう意味では、護良親王を支援した禅林寺の所在する紀伊国名草郡大野荘幡川村と似た土地柄です。
元中四(一三八七)年頃、美濃国守護土岐氏の一族原秀成が、信太荘の惣政所として入部し、以後この地の領主となって応永年間(一三九四~一四二八)に江戸崎城を築城します。
後 北条氏に従う原氏は、美濃国の土岐本家が滅亡したので土岐氏に復姓しますが、豊臣秀吉の小田原征伐に際し、奥羽仕置の奉行浅野長吉配下のじん神かく角すけ 介が天正十八(一五八八)年五月二十日に江戸崎城の本丸へ乗り込んだので、城主の土岐治綱は開城し、高田須へ退去しました。
治綱の退去後に入城した蘆名義広は佐竹義宣の実弟で、江戸崎の城下町を整備しますが、関ガ原の役の後に、佐竹氏が秋田転封となったので、江戸崎城は廃城となりました。
随風が入山した江戸崎不動院は、慈覚大師円仁の開山で、文明二(一四七〇)年に江戸崎城主土岐景成が修復しています。小田原役の後、江戸崎領主が土岐氏から蘆名氏に変ると同時に随風が入山するのは、天海の出自を葦名氏とする俗説と符合しています。
有名な浅草観音さまの浅草寺は同じく円仁の創建で、同寺の史料には、天正十八(一五九〇)年の小田原征伐で、徳川家康の陣営に浅草寺住職忠豪と共に天海がいた記録があるそうです。
以上から洞察すれば、家康を指導するために関東に赴いた天海は、川越城下の無量壽院北院に入った後に小田原征伐の家康の陣中に加わり、戦後に江戸崎不動院の住持を兼ねたと見ることになります。

   南光坊天海の実像
ここで天海の素性をハッキリさせましょう。
このことが世に出るのは、実に五百年ぶりのことです。
天海は天文二十一(一五五二)年、丹波国桑田郡千歳郷小口村で郷士安藤これ惟ざね実(号は緯翁)の子として生まれました。安藤惟実とは伏見殿七代邦輔(一五一三~六三)の王子邦茂王のことで、生母の実家安藤宗実の籍に入ってこれ惟ざね実を名乗ったのです。
以 後の安藤氏は伏見殿の分流になりますが、本稿で繰り返し述べるように、伏見殿は皇室の実家ですから、その意味では皇別安藤氏と言っても良いと思います。そ の墓は邦茂王次子の僧祖渓(浄泉和尚・大中和尚)」が棲んだ「浄泉庵」の後身の亀岡市千年山にある東光寺に、今もあるようです。
丹波国千年山安藤氏については、『落合秘史別巻・南北朝』に詳述しましたから、是非ご覧ください。

 さて、邦輔親王の第六王子尊朝法親王は天文二十一(一五五二)年八月二十日に生まれ、青蓮院門主として天台座主に就きましたが、慶長二(一五九七)年二月十三日に行年四十六歳で遷化しました。
文 禄五=慶長元(一五九六)年の閏七月十三日の子の刻に、直下型の慶長伏見地震が、京都・伏見で発生します。その後のこと、邦輔親王の王子伏見殿九代邦房親 王(一五六六~一六二二)が、兄の尊朝法親王の病気が重く、余命いくばく幾許もないことを見計らい、尊朝と同年生まれの天海を、尊朝法親王として徳川家康 に紹介します。
本物の尊朝は翌年二月に遷化しますが、家康はその後も尊朝が生きて天海を称しているものと信じた続けたまま、世を去ったということです。通説通り、寛永二十(一六四三)年に遷化した天海の行年は九十二歳で、世間が噂するよりはずっと若死です。
川 越以前の足跡は、天海としてはまったく不明ですが、随風としては良く知られています。まず会津龍興寺で得度して随風と号し、その後宇都宮の粉河寺で皇舜に 師事します。次いで、比叡山・三井寺・興福寺で天台宗を学んだ随風は、織田信長の比叡山焼打ち(一五七一年)を機に、武田信玄の招聘を受けて甲斐国に移住 します。
その後の随風は、蘆名盛氏に招かれて若松城の稲荷堂に住した後、上野国世良田の長楽寺に移ります。群馬県太田市世良田町の世良田山長楽寺は、承久三(一二二一)年に新田氏分流の世良田義季が願主となり、臨済僧栄朝が開山した寺院で、本尊は釈迦如来です。
長楽寺は当初は臨済宗でしたが、創建者の世良田義季を徳川氏家祖と仰ぐ家康が帰依したので、家康の政治面で参謀総長だった天海が復興して天台宗に改めたとされます。
右の伝承によると、当時は随風を称していた天海が、川越の北院よりに前に世良田の長楽寺に入山したことになります。当時は臨済宗だった長楽寺に天台僧の天海が入山した理由は、おそらくこの地の土地柄ではないでしょうか。
武士好みの臨済宗らしく本尊が釈迦如来の長楽寺は、天海が天台宗に変えて末寺七百を数える大寺院となります。この寺は、室町時代には「声聞師」と呼ばれた下級芸能人が本所と仰ぐ寺院と聞きますから、幡川禅林寺や江戸崎不動院と同じく「民衆型寺院」だったのでしょうか。
つまり上級武士好みの臨済宗の名刹長楽寺を天海は、非農業民救済系統の民衆型寺院に替えたのです。

そもそもこの世良田の地は、楠木正成と並び南朝武士の筆頭に挙げられる新田義貞の根拠ですから、住民も多くは族種南朝の系統で、その意味では紀伊国名草郡大野荘と似た土地柄と思われますが、本稿ではそれを追及していくための紙数が足りず、別の機会にしたいと思います。
さて、天正十六(一五八八)年に川越の無量壽院北院に入り、二年後に天海を号する高僧は、伏見殿家の尊朝法親王と同じ年の生まれで、しかも赤の他人ではなく、叔父甥の関係です。
随風が尊朝法親王を称したことは、なりすまし詐欺ですが、元来親族でもあり、宗教者特有の雰囲気で家康を誤魔化すぐらい訳がなかったものと思われます。
天 海のなりすまし詐欺がバレルとしたら、糸口は丹波方面しかありません。緯翁邦茂王の子の快翁・安藤正実の子が了翁・安藤定明で、伏見殿十代貞清親王に仕え てうきょう右京のすけ亮の官名を賜っています。貞清親王は邦輔の孫で、了翁は邦輔の曾孫ですから、この主従は五親等に当る「いとこちがい」です。
了翁の子の朴翁・安藤定為も伏見殿の家臣で内蔵頭に任じています。その子の為実と為章の兄弟は水戸光圀に仕え、国学者として偉業を成し遂げています。これらはみな伏見殿の身内ですから、天海にまつわる秘密をバラすなどということは、まず考えられません。

   西大寺律宗の流れを受けた天海
さて、上記の史的ジグソーパズルの大意は、唯一神道と両部神道との対立が激化したところへ耶蘇会(カトリック教会)の侵攻が加わり、正に内憂外患に陥った日本の精神世界を救済するのが家康の江戸開幕の目的であった、ということのようです。
現代人の大多数は、私を含めて教科書史観しか歴史の見方を知らず、宗教の対立と聞いても、取り立てて実感はありませんが、これまで教科書史観を疑う「疑史」を標榜してきた私は、この一文で一瞬感じたことがあります。
そ れは、今日まで私が迂闊にも軽視してきた、社会と宗教の根本的な関係です。「戦争は政治の形を変えた延長である」とは有名な言葉ですが、宗教も政治の形を 変えた延長と言えるのではないかと思います。いや、正確に言えば、「宗教と政治は、同じ上位集合に属する別個の下位集合である」ということだと思います。
そ の昔、三世紀半ばから七世紀前半にかけての古墳時代に、大規模墳墓建設集団を統率していた土師氏が大化二(六四六)年の薄葬令により前方後円墳の造営がな くなり、墳陵も小型化したため、工事需要の著しい減退に直面します。土師氏の傘下の土木労働者の多くは、朝鮮半島由来か、もしくは朝鮮半島を経由して日本 列島に到来した雑民でした。
律令制以前のヤマト政権の基盤は部民制でした。品部と謂われる専門の職掌ごとに別れたべの部たみ民を管掌支配した豪族 はキミと呼ばれ、恰も行政権力から公共事業の委託を受けた民間業者のようなものでした。例えば、野見宿禰は貴族の「土師のキミ」で、配下は平民の「土師の べ部のタミ」だったわけです。
部民は職能別だけでなく、大王家や豪族の私有民的な性格の「名代部」と呼ばれた部もあり,また「田部」と呼ばれた耕作民もいました。要するに部民とは一般庶民のことで、社会階級的には江戸時代の農・工に当るものです。
そ こへ大陸から律令制度が導入されます。すなわち天智九(六七〇)年庚午の年、課税の資料とするため、初めて戸籍が作成され、地域住民を登録します。そもそ もこの制度は、大化二(六四六)年の改新のみことのり詔で、全国を直轄領の公地として全国的に戸籍を作成する方針を謳ったものですが、豪族連合的性格のヤ マト政権の豪族勢力が残存してしたので、豪族私有民を公民として登録することは、社会情勢としても官僚の事務能力からしても著しく困難で、だいいち国民全 体の識字力が戸籍編集のレヴェルまで達していなかったのは、現代の中華人民共和国と同断でした。
したがって現実には庚午年籍の登録に漏れた部民も 多く、ことに新羅由来の渡来民のごときは、元来新羅の律令実施に伴う課税を逃れて日本に渡来した者と観られており、彼らは土師部の部民に紛れ込んだもの の、登録に応じる筈はありません。こうした無籍民を、単に「役民」すなわち単に、「労働者」と呼んでいたものと、私は推察します。下民(シタダミ)という 語もあったようです。
薄葬令により工事需要が激減した土師部では、従来のように部民・役民の福利厚生を実行することは到底ムリで、それどころか失 業対策及びリストラに肝胆を砕くはめになりました。当時の律令国家は、国家権力だけを揮うに急で、国家の義務を理解していなかったからです。そこで国家に 代わって、役民対策を引き受けたのが行基です。その流れが、西大寺流律宗なのです。
 かくて、律令政治の不全を、律宗寺院が補ったのです。
               このあたりは『落合秘史・南北朝』をご参照ください。

私が与えられた史的ジグソーパズルの断片は、江戸開府を命ぜられた家康が、天海と崇伝に在来宗教の棲分け策を案じさせたと表現しています。
この表現からすると、家康に江戸開府を命じた人物は天海ではありません。家康に江戸開府を命じた誰かの居場所は、家康よりも天海の方が近いようですが、金地院崇伝もおそらく同じような事情でしょう。
つまり、天海を尊朝法親王と偽って家康に紹介した人物が、天海を通じて家康に宗教政策を指導させることを命じたばかりか、家康から崇伝に申し渡して、天海と崇伝で在来宗教の抗争に終止符を打たせたのです。
家康にそれを命じたのは誰か。これこそ日本近世史の最大の謎、伏見殿なのです。
家康の狙いは宗教対立を収めて民心を一致させ、耶蘇会シャーマニズムの侵攻に対する防衛策とするためです。
伏見殿の指示を受けてこれを請け負ったのが天海は、西大寺流律宗の流れを汲む民衆寺院の復興も手掛けましたが、いうまでもなく、大塔宮護良親王の直系たる伏見殿の意向に添ったものでした。
2014-04-15 15:33:11

正成の鎮魂ここに成る


調月村は田畑高が千二百石を超え、天保年間の人口九百十五人(八歳以下を除く)を数える大きな村で、地士が中氏の外に岡氏・野口氏・津田氏と四人います。
中でも津田市左衛門は、苗字から明らかなように和田楠木氏の一族で、戦前までは貴志川荘井ノ口から当地にかけての大地主でした。津田家住宅と呼ばれるその広壮な邸宅は、有吉佐和子の名作「紀ノ川」を映画化した時に、ロケ地に選ばれました。
橘 諸兄の後裔を称する根来寺の杉之坊津田監物の子孫が津田氏で、遡れば楠木正成にいたる井口氏の同族です。江戸時代の津田屋敷の所在地の小名が、古来「ミヤ オリ」と呼ばれるのは、いうまでもなく「宮居」で、「大塔宮が居られた」ことを意味しますから、元弘年間の井口左近の館の跡であることは、まず間違いあり ません。
この屋敷で益仁親王が生れたのが建武元年四月二十二日で、直後に南北朝首脳による両朝統合の合意が成立しました。当時、大塔宮は尊氏との 不和を装って上京せず、信貴山の陣営にいると称しながら、井口左近館に近い調月村の寓居に、左近の娘と暮らしていました。当時の女性は、親元で子供を産み ましたから、産屋は近くです。
いよいよ偽装薨去の準備態勢に入る大塔宮は、信貴山の陣営に向かうために調月村の寓居を出ますが、その際、産着のままの益仁親王とその母を、実家の井口左近館へ返します。
それでは、「井口源次右衛門の書上」に、この男子が井口源次右衛門家の先祖となったというのを、どう解釈すれば善いのでしょうか。
こ のような事情は、南北朝両朝の変則統合が極秘計画たる「大塔政略」の根幹部分である以上、滅多に明かせるものではありません。今回、南北朝の秘密を七百年 ぶりで公開するに際しても、崇光天皇の生母が族種タチバナ氏女であることを隠すために、「紀」は「紀」でも紀通清の女としたものと思われます。
それこそ秘史なので、これ以上追及をしないことにします。
因 みに幕末、調月村宮居の津田氏に紀氏分流の薮内氏が養子入りしますが、石清水別当紀氏との関係の有無は判明しません。石清水別当の紀氏は紀長谷雄の子孫で すが、南朝ということを聞きます。南朝であることがハッキリしている摂津池田家(橘姓池田氏)も、紀長谷雄の子孫を称していますから、あるいは関係がある のかもしれません。
ともかく、私の脳裏に染みついて離れなかった件が、これで一つ解決しました。もう一件は、『落合秘史・南北朝』に掲げたままで未解決の下記の一句ですが、これも同時に解決したようです。
南朝が畑を提供し、橘が入って正成の鎮魂なる

 湊川の戦に利あらず建武三(一三三六)年五月二十五日に壮烈な自刃をした楠木兵衛尉橘正成が念じた南朝政権の実現は、正平三(一三四八)年に同族の族種橘姓井口氏女から生まれた崇光天皇が即位し、その子孫の後花園天皇が南北統合の唯一皇統となりました。
それもさることながら、同じく崇光天皇の末裔が永世親王家伏見殿として後醍醐皇統を支える万世一系の大黒柱となったことで正成の本懐が十分に遂げられて、鎮魂が成ったのです。
2014-04-15 15:32:10

建武新政と大塔宮


大塔宮のその後の動静を記したものは、『太平記』の記述しかありません。『太平記』によれば、元弘三年正月十六日、幕府方の二階堂出羽入道どううん道蘊が六万余騎の軍勢を率いて大塔宮の籠る吉野山城へ押し寄せます。
こ の時、村上彦四郎は鎧に十六筋の矢を撃ち込まれ、枯野に残る芒が風になび靡くがごとく折れ掛かる有様で、宮の御前に参って鎧を乞い、「自分がこれを着て身 代わりになっている間に落ちさせ給え」と申し上げます。「死ぬときは一緒だ」と嫌がる宮を説得した彦四郎は、宮の鎧を着て宮に成りすまし、楼門の上で切腹 して果てるのが『太平記』きっての見せ場であります。これを信ずれば、元弘三年正月には、大塔宮は吉野にいた筈ですが、その後の所在は例によって不明で す。 
閏二月二十四日、秘かに隠岐島を脱出した後醍醐天皇は、伯耆の豪族名和長年に擁されて船上山に籠ります。
一方、幕府軍の一方として出陣した足利高氏は、後醍醐の綸旨を得て変心し、四月に丹波の篠村八幡宮で倒幕の旗幟を鮮明にします。大塔宮と足利・新田ら武将の働きで、鎌倉幕府は同年五月に滅亡しました。
朝廷に戻って復位した後醍醐は、北条高時が擁立した北朝初代の光厳天皇を五月二十五日を以て廃位し、その処遇を「皇太子のままで帝位に就かなかったが、特例として上皇扱いする」と決めました。
一方、討幕成功の後にも、大和国生駒の信貴山を拠点にした大塔宮は高氏の武家政権樹立の野心を警戒し、武力衝突を避けて一向に上洛しようとせず、後醍醐に高氏討伐を具申します。
倒幕最大の功臣足利高氏に対する討伐をためら躊躇う後醍醐は、討伐を要請する大塔宮を征夷大将軍兼兵部卿・和泉守・紀伊守に任じ、征夷大将軍職を望む高氏には鎮守府将軍職を与えることで、バランスを取ろうとしました。

崇光天皇の生命がこの世に宿ったのは、丁度この頃です。
その場所は、大塔宮の信貴山陣営ではなく、大塔宮の勢力範囲で足利氏の勢力の及ばない場所、すなわち紀州北部か和泉だった可能性が高いと思います。

大塔宮は元弘三年六月十三日に征夷大将軍に任じられます。後醍醐から諱を賜り、高氏を改名した尊氏は、鎮守府将軍兼武蔵・相模・伊豆の守護となったものの、征夷大将軍になれない不満から新政体に加わろうとしません。
建 武元年に入ると、大塔宮がクーデタを図ったとか、無頼漢に辻斬りさせたとか、六月に尊氏館の襲撃に失敗したとかいう、『太平記』の作り話は、まるで慶応四 年の小栗忠順を髣髴させますが、大塔宮は結局、高氏との不和が後醍醐の不興を蒙ったとされて、建武元年八月末に征夷大将軍を免ぜられます。
これらはすべて「大塔政略」の筋書通りなのですが、作為にせよ尊氏討伐を公言する以上、大塔宮の身辺に危機が生じて当然ですから、結局、倒幕後の大塔宮は信貴山の陣営に居座って新政に参加せず、建武元年十一月まで一度も参内しなかった、と観るのが合理的です。
ともかく、十一月に参内した大塔宮は謀反の疑いにより、名和長年と結城親光に捕縛されて、鎌倉へ送られます。これを史家は、後醍醐が両人の不和を、足利氏と大塔宮の私闘と看做したため、と説明しています。むろん、田舎芝居です。
このあたりは『落合秘史・南北朝』をご参照ください。
   
つか調つき月(塚築)衆と石屋井口氏
文化八(一八一一)年十二月、紀州藩士井口げん源じうえもん次右衛門敬尹が紀州藩に提出した系譜には、下記のように記されています。
「先 祖之儀は者、大塔宮護良親王和州吉野山之おんいくさやぶれ御軍敗候のち後、紀州所々御ちっきょ蟄居之頃、同国つか調つき月村ニしばらく暫ござ被ならせられ 成御座候節、同所ニ井口左近と止もうす申郷士これあり有之、右之者之娘親王へ江ほうし奉仕そうろうところ候処、宮之おんて御手掛リ御落胤ニて而男子出生つ かまつりそうろう仕候。
其後又々宮ニは者、御陣営へ江あそばされそうろうにつき被為遊候付、御うぶ武ぎ着おそえあそばされ御添被遊、出生之男子と止共ニ女ヲ親許へ江おもどしあそばされ御戻被遊候。すなわち則井口之先祖にて而御座候。」

  これを字義通りに解すれば、「笠置敗戦の後、紀州各所に潜伏していた大塔宮は、調月村に暫く逗留した際、世話をした井口左近の娘に男子を生ませたが、その 後また陣営へ行くこととなったので、生まれたばかりの男子に産着を添えて、娘を親元へ返した。その子が井口家の先祖になった」ということです。
産着に包まれた「出生之男子」が後の崇光天皇ならば、前年の元弘三年六月に宮が征夷大将軍を受任した頃に妊娠し、四月二十二日に生まれたわけです。「ご陣営ヘ遊ばされ候」とは、信貴山の陣営に行く事と解されますから、それまで宮は紀州にいたのです。
し かし、母の実家の井口左近に引き取られたその御落胤が井口源次右衛門家の先祖になったという「書上げ」と、崇光天皇生母一件の関係を、どのように解釈すべ きか。四月二十六日生まれの人物は井口左近の関係者に確かにいますが、その意味を判断できません。秘史は隠してこそ、秘史なのでしょう。
文観が建てた「大塔政略」では、元弘元年後醍醐天皇が倒幕運動を開始するのは、その筋書に基くもので、間近い倒幕後に大塔宮が西大寺入りすることも、当初から予定されていました。
西大寺に入り、非人(非農業民)のカシラになる大塔宮が、紀州で秘密本拠とするには、当時の調月村は正に打って付けの場所でした。
         大塔宮の偽装薨去による西大寺入りと、その後については、『落合秘史・南北朝』に詳述しています。

大 塔宮の紀州入りは笠置挙兵以前から計画され、滞在先として、当初から紀伊国那賀郡吉仲荘調月村が選ばれていたものと推測します。理由は、ここが当時「石屋 の基地」だったからです。石屋とは、石材販売業でも石材加工業でもなく、石積工事屋でもありません。井=堰のことで、堰口は用水の取水口を意味するから、 水利技術者なのです。
『紀伊国続風土記』はつか調つき月村について、「当村は調月といふ人初めて開きし地なり。ゆえに村名とす」としています。さ らに、「この地行基菩薩留錫の地にて、行基のふ壓せしとて、人を葬るに何の地にても害なしとて、家々屋敷の中に墓所あり」と述べています。そればかりでな く、調月村の旧家四家のうち「地士なか中平左衛門は、其の祖は筑紫国菅原朝臣中将送須といふ人の苗裔、調月入道俊正といふ」とあります。
これをみれば調月村は、明らかに菅原氏すなわち古代の土師氏の旧跡です。中氏の先祖の調月入道菅原俊正なるもの九州から来たのも、職掌によるものでしょう。
こ の地の天王山大日寺は高野山真言宗ですが、開山は行基です。『紀伊国続風土記』には、調月の地名の由来を「蝶月」としています。その根拠は、この寺の古瓦 に「揚羽蝶の下に三日月」の模様があったからとしていますが、これは固よりコジツケです。大日寺は、古瓦を写したプレートを山門に懸けています。千鹿野茂 『日本家紋総覧』にも見えない珍しい紋ですが、これは揚羽蝶ではなく、「浮線蝶に三日月」です。菅原氏の家紋は梅鉢で、桓武平家の蝶紋を使うことはまず考 えられないので、この浮線蝶の紋は古瓦の主の大日寺の寺紋か、願主などの家紋と観るしかありません。つまり、菅原俊正が称した調月入道の「調月」は、「蝶 月」ではあり得ず、別の意味と考えるべきです。
察するにこの地は、土師氏の職掌たる墳墓造営に携わる上級技能者、すなわち「つかつ塚築き」衆の本 拠地と考えられます。行基が滞在したのも当然の土地柄で、土師氏の子孫菅原俊正も「つかつ塚築き」の職掌のために九州から来村して、つか調つき月=つかつ 塚築き入道と称したのです。右により、元弘・建武の当時、当村は西大寺流律宗の重要拠点だったと推察されます。
調月村は「行基がまじな呪いふ壓せ たので、全村のどこを墓地としても害なし」とされましたから、大日寺には元来墓地がありません。村内も、もとは各家の屋敷内に墓所がありましたが、今では さすがに宅地と切り離されてしまい、さながら住宅街の介在墓地の有様です。逆に言うと、昔は各家の敷地がそれほど広く、やはり土師=菅原氏の上層技能者集 団の本拠地だったと観るべきです。
紀北井口氏は河内・和泉の和田楠木氏と並ぶ族種タチバナ氏の土豪ですが、シュメルに発祥したワンワールド系と推 定される縄文族です。この族種は古来「石屋」と呼ばれていますが、なかでも井口氏は、先述のように水利技術者の統領ですから、井口左近が調月村に館を構え ていたのは荘園管理でなく、ツカツキ衆(つかつ塚築き衆)との職掌上の関係と観るべきでしょう。
このような関係から、元弘元年九月に笠置を落ちた大塔宮は、真直ぐに紀州を目指し、調月村の井口左近の屋敷に入ったものと推察します。それは文観ないし禅林寺を通じて、挙兵の前に予め井口左近との根回しが済んでいたからです。
かくて、調月の井口左近館を根城にした大塔宮は、紀州各所にシノビを放って土豪勢の向背を窺いながら、井口左近に同族井口右京(左京?)の支援を頼み、壱岐守の朋輩の大野十番頭を工作させます。それが成功し、大晦日の禅林寺入りと元旦の春日神社の社前集合となったのです。
 春日神社で大藤宮は、十番頭の銘々に、それぞれ受領名を書いた紙を与え、倒幕が成就した暁には、この通りの恩賞を与える旨の、約束を致しました。井口右京大夫の先祖はこの時、壱岐守に任ぜられました。
2014-04-15 15:30:47

竹原氏女と骨置神社


竹原八郎とは何者でしょうか。
花知村に今も建つ花知神社は、護良親王と竹原八郎を祀っています。これはむろん納得しますが、主祭神がホアカリでな く牛頭天王なのには驚きます。竹原氏は牟婁郡入鹿荘の土豪入鹿氏の分流で、アメノホアカリ(天火明命)を祖神をとする一族と云われていますが、もしその通 りならば、間違いなくアマベ氏の分流です。エジプトを追われて古イスラエル王国を建てた後、アッシリア帝国に攫われて東方に流移して以後、歴史から姿を消 したいわゆる「消えた十部族」のうち、海路によって丹後半島の天橋立に漂着したオリエント多神教徒の末裔がアマベ氏です。
彼らが古イスラエル王国の頃から祀っていたオリエント多神教の神バアルを、日本神道ではスサノヲ命と呼びますが、帰化人の八坂連も朝鮮半島のソシモリからバアル神を奉じ、牛頭天王と称して祇園社や廣峯大神宮に祀っています。
神道のスサノヲと渡来神の牛頭天王は実は同体ですから、それは良いのですが、もしも竹原氏がホアカリを祖神とする一族ならば、花知神社がホアカリを祀らない理由が理解できません。
あるいは竹原氏は、ホアカリ命の末裔ではないのかもしれません。つまり竹原氏は賜姓橘氏ではなく、また族種タチバナ氏でもないところから、大塔宮に召された竹原入道女は、崇光天皇御母の条件を満たしていません。
ところで、たかはら竹原村にはこうどう古宇土宇宮(今はこうず骨置神社と称す)が今もあり、「熊に注意」の看板の傍に、『紀伊国続風土記』を引いた下記の説明板が掲げられています。
  こうず骨置神社 
元弘元年九月笠置陥り、護良親王は難を熊野に避け北山に至る。この地の豪族竹原八郎宗規・戸野兵衛良忠等直ちに親王を迎え、四方の要害を固め、竹原の地を根拠として画策すること半年、元弘二年六月令旨を奉じ、伊勢方面に進出、六波羅を驚かす。
諸国の武将これを聞き蜂起して遂に北条氏亡び建武の中興が成った。
護良親王竹原八郎の娘をお側に召され、その間に若宮が出生されたが幼くして亡くなる。生地の人尊びて骨置神社としてお祈りする。

右の骨置神社の伝承にも、「竹原氏女の生んだ王子は幼くして亡くなる」とあります。「この王子が実は生きていて、陸良親王となった」とする俗説もありますが、状況が符合しません。よって竹原氏の息女は、崇光天皇生母とは無関係と判断いたします。
大 塔宮の一行は、紀北土豪の動向の見極めが付くまでの間に、熊野大社の向背を探るために熊野に向かい、十一月頃に切目王子へ到着したのでしょう。ところが、 予て放ってあったシノビの知らせで、熊野大社の情勢が不穏と知った一行は、これより二手に別れたものと考えられます。大塔宮は紀伊半島から和泉・河内にか けての倒幕戦争の全局を見渡す立場ですから、熊野の局地戦に何時までも拘ってはおられません。したがって、配下の一部が吉野の十津川をめざし、大塔宮は紀 北へ引き返して、年末には大野荘に入ったと観るべきでしょう。
元弘二年六月、大塔宮が竹原八郎・殿野兵衛に令旨を発して伊勢方面を攻めさせたのは事実と観て良いですが、本人がその現場にいたとは限りません。
大塔宮がそれまで半年ほど竹原館に滞在したと伝わるのは、倒幕行動における大塔宮の立場とそぐわず疑問です。あるいは影武者かも知れませんが、これらをどう解すべきか、今は結論を出せません。
2014-04-15 15:25:44

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