「紀伊國名所図会」 江戸時代(文化8年)図 
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春日の森
 
 春日の森は、鎮守の森として多くの人々によって守られてきた森林です。
 この森にはホルトノキ、ツガ、シイ、クスノキなどの大きな木が生いしげり、昆虫は本州では春日の森だけに住んでいるネジロツブゾウムシという珍しい虫やカネコトタテグモなど貴重な生物が成育しています。
 この森は昔から木を切ることなく大切に守り続けられたので、貴重な生物、樹木などが残るとして、平成九年に海南市の指定文化財(天然記念物)に指定されています。 
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春日神社十番頭祭:海南中世史講座

応仁の乱と紀伊








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大塔宮の吉野熊野入り


紀州藩士井口氏の「書上」では、大野十番頭の一人井口壱岐守の同族井口左近の女系末裔の同族で、調月村みや宮おり居の郷士井口左近の女が大塔宮の世話をし ているうちに御手がかかり、男子が生まれたが、再び陣営に向かう宮が、産着と共にその男児を女の親元に帰した、としています。
生まれるまでには十カ月かかりますから、どう見ても一年くらい後のことですから、以下に述べる大塔宮の熊野入りとの前後の時制がはっきりしません。
大塔宮の紀州入りは、高野山や熊野大社に対する工作だけが目的ではありません。紀州全域に蟠踞する族種南朝の海人衆、すなわち和田楠木氏・井口氏ら族種タチバナ氏の土豪勢力むしろ本命で、これに対する支援要請のための紀州入りだったのです。
土 豪の有力者を工作しながら紀伊半島の各所を徘徊していたため、動静が判りにくい大塔宮は、当時の通例として影武者を使いますから、実態はますます不透明に なります。大塔宮の動静で唯一確かなのは、調月村の井口左近館に逗留したことですが、熊野入りとの時制関係がはっきりしません。
さて、『紀伊国続風土記』日高郡切目荘の条は、『太平記』を引いて、下記のように述べるので、その内容を下記に意訳します。
親王は南都あたりに隠れるのも困難なので、般若寺を出て熊野の方へと落ちた。
お供は赤松律師則祐・村上彦四郎・片岡八郎・矢田彦七・平賀三郎らで、かれこれ九人が宮からお供まで、全員が山伏姿で熊野参拝の体に見せていた。
切目王子に着いた夜、宮のまどろみ微睡の中の夢に一童子が来て「熊野三山は人心不和にして大義成りがたし、十津川へ渡りて時を待つべし」と謂うのを見て、直ぐに目覚めた宮は熊野行をやめ、十三日かけて吉野の十津川へ着いた。

こ れによれば、元弘元年九月に笠置を落ちた大塔宮一行は、十一月頃に紀州に現われ、藤白・由良を過ぎて十一月中旬に印南郡切目荘の切目王子に辿り着きます。 その夜、宮の夢に現れて「熊野三山の僧徒に警戒せよ。吉野の十津川へ渡って時機を待つが良い」と告げた童子とは、むろん宮が予め熊野三山に放っていたシノ ビです。
シノビの情報により熊野行を断念した大塔宮の一行は、山道を十三日掛けて大和国吉野郡十津川郷の宇井地(現在の大塔村宇井)に辿り着き、十津川郷の竹原八郎屋敷で半年ばかり過ごした大塔宮は、還俗して八郎の娘を側に召したとされています。
しかし、吉野郡十津川郷(十二村荘)の殿野村の領主は、実は竹原八郎でなく、甥の殿野兵衛でした。八郎の本拠は紀州牟婁郡西山郷竹原村(今は和歌山県県東牟婁郡北山村竹原)、及び北山川を挟んだその対岸の花知村(現在は三重県熊野市神川町はな花じり知)にありました。
宮の保護には熊野の方が適切と考えた殿野兵部と竹原八郎が、熊野の竹原に宮を移したので、宮はそこで八郎の女に一男子を生ませた、とされています。
2014-04-15 15:24:22

大野十番頭について


元弘元年の大晦日に大塔宮の一行が幡川の禅林寺に入ったのは、偶然に立ち寄ったのではありません。
宮の一行は九月に笠置山を落ち、十月頃から紀州路に潜んで各所の土豪勢力の向背を探っていたところ、春日神社宮座衆の大野十番頭の支援が得られた旨の知らせが、春日神社奥ノ院の禅林寺から、大塔宮の潜伏場所に届いたのです。
宮の一行が大晦日にも拘らず禅林寺を訪れたのは、これを確認するためだったので、大野十番頭からの「明けて元旦に春日神社の神前でお待ちいたし候」との申し出を、大塔宮はこの時に受けたと思われます。
大野十番頭とは、名草郡大野荘の春日明神の宮座衆として大野荘所在の田畑山林を共有し、輪番で管理に当っていた十人の領主です。
名 草・那賀の両郡にかけて勢力を張る大野十番頭こそ、大塔宮が当初からアテにしていた兵力で、文観が笠置挙兵の前に、春日神社宮座衆を大塔宮支援に仕向ける よう、奥ノ院の禅林寺に指示していたのです。禅林寺が、大塔宮と大野十番頭の仲介のみならず情報の中継にも当たっていたのは、西大寺流律宗系のあらゆる寺 院が当時は行商の拠点となり、その行商たちがシノビを兼ね諜報員を勤めていたからです。
一夜明けて元弘二年元旦、大野十番頭は宮座衆として当然な がら、春日神社に集合します。大塔宮がそこを訪れたのは、勿論偶然ではありません。大塔宮が参拝に事寄せて大野十番頭を引見する段取りが予めできていたの です。何しろ宮の一行は落武者で、相手は一応鎌倉幕府の配下の武士ですから、不用意に出くわすわけにはいきません。電話もメールもない時代ですから、何日 も前から根回しをしていたのです。春日明神の神前で大塔宮にお目見えした十番頭の全員が宮への忠誠を誓ったのも、前以て開いた宮座の総会で、意見の一致を 見ていたからです。
大野十番頭の本拠地および姓名と、五百二十年後の天保年間の現状を、『紀伊国続風土記』は下記のように記しています。ゴシックは現状です

  鳥居浦    三上美作守(断絶・ただし春日神社神官として存続)  
稲井因幡守(鳥居浦地士) 
但馬丹後守(日方浦地士)  
坂本讃岐守(田中荘打田村地士)  
石倉石見守(断絶・ただし各地に存続)
  神田浦    尾崎尾張守(黒江村・六十人地士)
  井田村    井口壱岐守(那賀郡小倉荘満屋村地士)
中村      宇野辺上野守(改め名取姓・軍学家・ただし名高浦に宇野辺氏あり) 
            中山出羽守(断絶・ただし各地に存続)
  幡川村    藤田豊後守(日方浦地士) 
 
 十番頭のうち、村(農村)を本拠とするものは四人で、残る六人は浦(漁村)を本拠としていますから、その族種がおおよそ海民系であることが察せられます。
当地には春日明神と粟田明神の兄弟神社がありましたが、両者の祭神は奈良の春日大社とは全く別系統で、大春日臣(粟田氏)の氏神の天足彦国忍人で、三代孫も粟田明神と呼ばれて併せて祀られます。
両部神道の当時の奥ノ院幡川禅林寺は、最盛期が南北朝時代とされています。
ところで粟田氏は、和邇氏が集住する大和国添上郡と山城国おたぎ愛宕郡粟田郷を根拠とする和邇氏の分派で、紀州日高郡の海女から不比等の娘となり、文武天皇夫人として聖武天皇を生んだ藤原宮子を探し出した粟田真人が出ています。粟田真人は不比等の片腕です。
壬 申乱で大海人を援けて大功を立てた美濃国湯沐邑の和邇部君手が、おそらく報奨のために、奈良の春日山の地を賜ったのでしょう。そこで和邇氏の一部は春日山 に移住して天足彦国忍人を祀り、自ら春日氏を称したのは地名を取って苗字にする慣習です。旧地の湯沐邑に戻ってきた和邇氏野分流も春日氏を称したので、湯 沐邑があった揖斐郡に春日村ができました。
ところが、大海人すなわち天武天皇の亡きあと、近江寄りの姿勢に復帰した持統天皇と政治的に結託して勢力を増した藤原不比等が鹿島の神を奪い、これを祖神として大和に移すための社地として春日山の春日明神の社地を望み、腹心の粟田真人に交渉させます。
同族の出世頭粟田真人の顔を立てた和邇氏改め春日氏は、十人が春日神社の御神体を奉じて代地の紀伊国名草郡大野荘に、やってきました。この地を大野荘と呼んだのは、あるいは、元々多氏の土地だったかも知れません。近くに多田(オホタ)荘もあります。
和邇氏は海洋民族ですから、山中の春日の地よりも海岸の大野荘の方が族種性に適合して、今に栄えているものと思われます。
2014-04-15 15:23:19

大野荘中村春日明神に関する考察(1) その②


「2」地名オオノの起源に関する試論
大野荘が「オホノノ荘」と呼ばれたのか、それとも「オホノ荘」と呼ばれたのか、確かめる方法を知りませんが、私は後者ではないかと秘かに考えております。その理由は、この地が光明皇后のゆのむら湯沐邑だったことです。
湯 沐邑の語源は唐制にあり、中宮・東宮など特定の皇族にだけ、浴場を維持する財源として与えられた荘園と謂われます。「壬申の乱」の挙兵で有名な大海人皇子 の美濃国湯沐邑は後に池田町と呼ばれますが、ここは紀氏が開発したようです。湯沐邑のカシラを湯沐令と書き、「ユノウナガシ」と読みますが、何だか早く入 れと催促されているような気がします。
大海人皇子の湯沐邑のゆのうながし湯沐令の名はおほの多品ほむじ治と謂いますが、実はこの姓の「オホノ」が 「大野」の起源ではないかと思うのです。「壬申の乱」において、大海人の側近武官の村国男依という人は、名前から紀氏と察しますが、その下で活躍するわに べの和邇部きみて君手も大海人皇子の舎人です。
舎人は地方豪族の子弟が使用人として貢進されますから、君手は本来、美濃国の豪族の子弟と考えるべきですが、それも、後年に美濃国揖斐郡いけだの池田しょう荘と呼ばれるようになる大海人の湯沐邑を管理していた豪族と思われます。
和邇氏が集住していた池田荘は明治時代になり、隣接する大野郡と合併して、今は岐阜県揖斐郡で池田町と称していますが、隣が同郡大野町です。郡内には春日村もありましたが、平成十七年に近隣町村と合併して揖斐川町の一部になりました。
こ れを見れば、「大野」と「春日」の関係は明らかで、旧は湯沐邑の荘官だった「多」氏と、春日氏(和邇氏)が共存していた地域だったのです。これを地元の池 田町ではどう説明しているかというと、春日については、「明治二十二年に春日谷の六村が合併した際に春日村となったが、春日という日本語は微かに霞立つ険 しい山が語源」などと、与太を言っています。大野郡となると、定めし「大きな野原だから大野だ」などと謂うに決まっていますから、解説を観る気もしませ ん。
 ここで気になるのは、「壬申の乱」で大海人支援の先駆けをした湯沐令のむらくにのおより村国男依の名から紀氏を連想することです。紀氏には「オ」で始まる名前が多く、和歌山市の地名の「オノ湊」も、紀氏が支配していた「オ」という土地にある湊の意味と考えられています。
ところが、この地の地名は、開発領主が和泉国池田村から来たので「池田」となったとされておりますから、もし池田村からやって来たのが紀氏だったならば、上手く説明が付きます。しかも摂津池田氏は、先祖と称する数ある姓の中に、紀長谷雄を入れています。
紀 州大谷古墳で見つかった馬冑からして、騎馬族の典型と観られる紀国造家と同族になる山城紀氏は、いつの間にか騎馬民から海洋民に族種が入れ替わり、その秘 密を家系図に秘めているとのことです。宇佐から石清水に八幡神を勧請してきた善法寺別当の紀氏も、実際の族種は海洋民の橘氏で、「南朝」系だそうです。こ の血統入替えを解くカギは、紀長谷雄(八四五~九一二)に在るとされています。
それなら橘系楠木氏を称したり、時には紀長谷雄系を称している摂津池田氏も、結局は同じところに帰するように思われます。
ともかく、紀氏こそは古代史最大の謎と言って良い、と思います。
       
            2013年6月12日
                紀州文化研究会   落合莞爾
2014-04-15 15:22:14

大野荘中村春日明神に関する考察(1) その①


[1]奥ノ院幡川山禅林寺

大野荘中村の春日大明神の奥ノ院の幡川山禅林寺は大野荘幡川村にあり、大野荘の荘官団として輪番で管理していた大野十番頭の荘園管理事務所を兼ねていました。
禅林寺は聖武天皇(在位七二四~七四九)の勅願寺で、唐の長安から来日した青龍寺の為光上人が開山しました。その時期は天平年間(七二九~四九)とされていますが、ここでは一応、七三五年と仮定しておきます。
東大寺大仏造立の詔が天平十五(七四三)年、大仏開眼はその九年後の天平勝宝四(七五二)年ですから、禅林寺建立の勅願は大仏造立に数年先駆けて行われたのです。
インド中期密教が唐に入った契機は、天竺僧の善無畏(六三七~七三五)による「大日経」の漢訳です。同じく天竺僧の金剛智(六七一~七四一)と、その弟子で西域人と謂われる不空(七〇五~七七四)が「金剛頂経」をもたらして、中期密教の経典を唐に伝来します。
唐では当時、法華経に基づく天台教学などにより、仏教思想が既に確立し、現世利益的密教が普及していましたが、そこへ成仏を願うインド中期密教が入ってきたわけです。
不 空が仏教を鎮護国家思想と結びつけることで体系化した中期密教は、唐皇室の帰依を得て最盛期に達しますが、その中心が唐都長安(現在の中華人民共和国陝西 省西安市)の青龍寺だったのです。青龍寺は隋の開皇二(五八二)年に創建された霊感寺の後身で、一旦廃された後、六六二年に再建されて観音寺と号し、景雲 二(七一一)年に青龍寺と改号されました。
幡川禅林寺の開山為光上人の生れを、一応七〇〇年前後と推定しておきます。青龍寺で為光は、同年輩の不空の兄弟弟子として、金剛智(六七一~七四一)から「金剛頂経」を主とするインド中期密教を学んだものと見られます。
為光の来朝については朝廷側に記録がないらしいところから、朝廷の招聘によるものではなく南都仏教に勢力を有していた有志が招聘したものと考えられます。
有志の招聘を受けて、おそらく七三〇年代に来朝した為光は、聖武天皇の勅願による幡川山禅林寺を開山します。為光を招聘した有志とは、おそらく当時南都仏教を支配していた渡来人阿刀氏の一族で、目的は仏教強化の新理論としての密教の移入と思われます。
飛鳥時代(五九二~七一〇)にすでに密教が渡来していたことは、聖徳太子の遺品で判るそうですが、奈良時代に渡来したのも含めて、それらを「ぞう雑みつ密」と呼びます。
一方、不空に師事した恵果阿闍梨(七四六~八〇六)が不空が完成した体系的密教「純密」の第一人者として歴代皇帝の師となり、東アジア各地から長安青龍寺に集まった弟子たちに純密を授けていました。
不 空と同年輩とみられる為光が来朝したのは、推定七三〇年頃ですから、恵果はまだ生まれて居ません。したがって為光が日本にもたらした密教は、まだ純密化さ れていない段階の現世利益的性格の濃い雑密と考えられます。青龍寺でとも倶に恵果に学んだ空海と最澄は、それぞれ純密を日本にもたらしましたが、前者を 「東密」、後者を「台密」と呼びます。
大塔宮の紀州入りは、高野山や熊野大社に対する工作だけが目的ではありません。紀州全域に蟠踞する族種南朝の海人衆、すなわち和田楠木氏・井口氏ら族種橘氏の土豪勢力、荒川悪党らいわゆる悪党武士がむしろ本命でした。彼らに対する支援要請のための紀州入りだったのです。
その一つが大野十番頭だったことは言うまでもありません。それは、大野十番頭がアマベ系海民の族種であることと、その蟠踞する大野荘の地が、やがて紀伊国守護の城館が出来る土地柄からです。
2014-04-15 15:21:03

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