昭和九年の観光案内図

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熊野古道海南「松代(まつしろ王子神社」

熊野九十九王子の一つ「松代王子」が春日神社境内にある。「松代王子」は江戸時代にはすでに廃社となっており、紀州藩祖徳川頼宣公の命により碑が建てられた。
 明治に入り地元の人たちの手で、社殿境内が復興され、無格社「松代王子神社」として存在していたが、明治四十二年神社統合令により春日神社に合祀された。「神社明細帳」には、この時の社殿は五尺四面の本殿、境内三百坪としている。
 その後、平成十五年に春日神社境内社として熊野古道を愛する方々のご寄附により再び復興し現在に到っている。
 この「松代王子神社」のご神体は、「なぎの葉」の形をした墨(松煙墨)である。今、この松煙墨を使用した書初会が毎年、お正月に催されている。
 また、松代王子社の故地近くの日方川を渡る木の橋「松代橋」が春日神社拝殿に掲げられている。
 古への熊野古道そのものがある神社としても有名である。
 

熊野古道海南「春日の板橋」

熊野古道そのものが春日神社拝殿に掲げられている。「春日の板橋」と呼ばれ、幅一・五㍍、長さ五㍍の熊野古道の日方川に架かっていた当時の「松代橋」である。
 この橋は大雨ごとに度々流されていたが、必ず帰ってきたことから「戻り橋」とも云われ、今は無事に帰ることを願ってこの板橋を拝む人も多い。
 現在、春日神社の拝殿に社宝として掲げられ、木村見山先生により由緒が書かれている。
 
その内容は

この木古しと里人はいう
橋には諸車止めあり
小栗判官熊野に到る
土堤を廻り井田川伝いに
橋頭に停車して春日社を礼拝す
よって、この橋有名になる
~中略~
明治38年各掲げて扁額となし
伝説を刻んで共に朽ざらしめん

とある。
照手鳥居


照手姫は、土車に小栗を載せて熊野へ向かう途中、この松代橋で車止めにあう。そこで小栗を橋頭に残し照手は春日大明神に許しを得るため春日神社に参拝。無事に熊野へ向かうことが出来たのである。
 この照手姫が参拝した昔の参道(現在は通行できません)に赤い鳥居が建つ。照手鳥居と呼んで今でもこの鳥居を通し、身体の健康や病気平癒を祈る人も多い。

熊野古道海南の三ルート

熊野古道は、熊野三山へお参りする道ですが、海南には主に三本の熊野古道が有りました。
 一つは、王子社が点在する御幸道、いま一つは春日神社より南東へ進み、別所の願成寺前を通り今の海南高原カントリークラブの中を抜ける別所越えへの古道で、春日神社は御幸道と別所越への分岐点にあたります。
 あと一つは、貴志川から南野上を通り黒沢牧場付近を抜ける道で南野上には熊野参拝へ向かう人々のための宿もあったようです。



 
熊野古道紀伊路

松代王子神社の道中安全お守(三〇〇円)

 
大塔宮御逗留旧址(南朝・大塔宮遺跡)

 太平記に有名な大塔宮護良親王の熊野行きの伝説がこの地に残っている。
 歴史に有名な「元弘の変」の一コマである。
 元弘元年(一三三一)笠置に続いて赤坂も落城し大塔宮様は熊野に向かわれた。
 布施屋より山東荘、熊野古道に従い海南の地に入られたのは同年十一月の頃である。
 さて、このとき宮の警固の任に当たったのが大野十番頭の面々であった。春日神社の祭礼を年番で務めていた大野十番頭は三上荘大野郷を統治するこの地の豪族であり、護良親王を一時、春日神社の社殿に隠し申し上げた。
 故に、現在に至るまで相殿三扉のうち一つは空位となっている。
 その後、年が明けるまでこの地にご遍留されたという伝承があり、大塔宮様を祀るお社を「年越神社」といい、かつて南参道の途中にこのお社が存在した。現在はその跡地が残るのみとなっている。
 親王は大野十番頭達の忠勤を深く称され「春日大明神」の御名を自ら書きその脇に受領名をも書き添えられ夫々、一幅づつ賜ったとある。
 その「大野十番頭(春日十番頭)」の面々は

 鳥居村 三上美作守     鳥居村 稲井因幡守
 鳥居村 田嶋丹後守     鳥居村 坂本讃岐守
 鳥居村 石倉石見守     神田浦 尾崎尾張守
 井田村 井口壱岐守     中村  宇野辺上野守(和泉守)
 中村  中山出羽守     幡川村 藤田豊後守
                  (紀伊続風土記より)

 今、この南北朝ゆかりの地で十番頭末裔たちが集う祭りが年に一度、六月に開かれている。
 

大野城と守護所

 大野城は南北朝時代に築かれた守護大名のお城です。すなわち守護所、現在の県庁所在地が、この海南の地にあったことになります。紀伊国、和歌山の中心地が海南市だったのです。
 その時代は至徳年中(一三八四~八七)に和歌山市府中より紀伊国守護所を大野に移し今の和歌山城の地に移るまでの期間です。
 大野城は大きく東西の城に別れ、東の城が標高四四三㍍のながみね山脈の高い峰にありました。
 また、この西の城の東には曲輪や空堀、幅六〇㌢程の土橋が残っていてさらにその東方には、たくさんの空堀に過kも稀多曲輪群があり、その南斜面には堅堀群が存在し、この大野城で最も堅固に造られた場所で城の中枢部であったと思われます。これより東北の頂に東の城が三段の曲輪から構成されています(作図参照)。「東面10間南北十二間」程の曲輪です。
 大野城は、その全体は未だよく分かりませんが、東の城から西の城までで一一〇〇㍍にも及ぶ大きな守護大名の城です。
 今、天空の城、日本のマチュピチュとも呼ばれ、竹田城が有名となり多くの観光客が押し寄せていますが、大野城が復元されればその大きさや曲輪群から、またその威容から考えても良き観光地路なることでしょう。

 守護所(政務を執り行った居館)は、大野城を北に下りたあたりにあったと考えられます。その場所は、確認されていませんが、大野中村の高畑か大野島居村の丹鍬にあったとされています。
 

大野城の支城

 大野城と守護所の北方にいくつかの史跡があります。日方城(岡田城)扇子ヶ城、城の平、池崎城、神田城、春日山城、東畑城などがあります。
 この中で、「春日山城跡」は、春日神社社有地にあり、「紀伊國名所図会」春日神社図の中に確認することができます。現在は「春日山城址」の石碑が建てられています。大野城、東の城跡も春日神社の社有地で、大野城跡の石碑が昭和三年に建てられています。
 

縁結びの森

 春日神社の境内には「おタヌキさん」が赤い鳥居の中に祀られています。
 この「おタヌキさん」は春日の森に埋まっていたのですが、看板の設置の時に出てまいりました。
 お腹は雨に濡れ、足元は泥がかぶっていた状況でしたが、ある日、一人の参拝者が足元が汚れるので「おタヌキさん」を上にあげさせてもらえないかと云われ、気楽にどうぞと返事をすると、いつしか今のような立派な社殿の中に納められ、鳥居が建てられました。ちなみにこの人によると未だ完成ではないとのこと。出来上がりがどのようになるのか楽しみです。
 このところ、あまりお越しにならないと思っていたら、仕事がたいへん忙しくなってきたとのこと。これも春日大明神とおタヌキ様のおかげと喜んでおられました。
 それもご神縁と云うことで、春日大明神様と参拝者とを取り持つ「お使いさん」の役割を果たしているようです。鈴を鳴らすかわりにお腹をさするとご利益があるとして、皆さんお参りをする時にお腹をさすっていかれ、春日大明神様とのご縁を頂いて帰られます。
 このことから今では仕事運、商売運、また良縁運などの向上や失せ物が出てきますようにと願う人が多いようです。
 

巳さん(縁起の良い幸運をもたらす巳さん)

 春日神社拝殿に向かって右側に進むと祇園神社がありますが、その手前に栂(つが)の大木が立っています。この付近には昔から白い巳さんが住んでいるとし「巳の神栂」(みのかみつが)と呼ばれ当神社の御神木となっています。
 巳さんはめったにみることはできませんが、観る人は何回もお目にかかっているようです。
 その中の一人の方が観たときのお姿のままに巳さんの像を造り奉納してくれました(リアルな姿なのでびっくりするではなく、こわいと感じた人にはご神縁は得ることをできないでしょう)。
 今、この「巳の神栂」の根元に置いています。
 巳さんは、お天気の悪い日に良くでてくるそうですが、この巳さんを観ることが出来た人は願い事が叶ったり、良き事ががくさんあったりと幸運を運んでくれるとして、遠近からお参りが絶えません。
 皆々様にもこの「巳の神栂」を拝んで健康で幸せな生活を営んでいただきたいものです。


 
大野十番頭(春日十番頭)

 大野十番頭というのは、神護景雲二年(七六八)に大野郷へ「春日大明神」を勧請したとき、南都奈良より供奉した面々との由緒をもった豪族です。春日十番頭とも呼ばれ、荘園時代には皇室領の三上庄の庄官をつとめた十家の集団です。
すなわち十番頭の面々とは、

 鳥居村 三上美作守     鳥居村 稲井因幡守
 鳥居村 田嶋丹後守     鳥居村 坂本讃岐守
 鳥居村 石倉石見守     祁田浦 尾崎尾張守
 井田村 井口壱岐守     中村  宇野辺上野守(和泉守)
 中村  中山出羽守     幡川村 藤田豊後守
                  (紀伊続風土記より)

 天正五年(一五七七)八月十六日、井松原合戦があり日方勢、名高勢合わせて二百人余の戦死者が出た戦いが、今の海南駅付近でありました。
 この年2月に織田信長の紀州攻めのとき信長方に加担した勢力と雑賀方に味方した勢力との対立でした。親戚関係にある十番頭も二つに分かれて戦うこととなったのです。稲井氏ら日方勢は、日方の今市に仮城をかまえ、名高勢は現存の海南駅前に陣をかまえ戦いましたが、日方勢が敗北し、敗走しました。
 しかし、もともと同族の十番ガシラ諸氏は、その後、敗れた方に各々養子を立て家を再興しています。
 戦国の世のならい、あえて始めから同族である十番頭を絶やさないため、二つに分かれて戦ったとも考えられます。

海南市勢概要      (昭和9年ごろ)